
[{"content":" 2026/3/16（月） # 退勤後にスアールの大会に行こうかと思い友達を誘ったが、みな既に同種の大会に出てしまっていて参加資格がなかった（問題が同じらしい）。なんだかんだ残業してしまい、一人でも行かず。\n『蘭 竹西寛子自選短編集』（集英社文庫）を2篇読む。竹西寛子と竹村和子がたまに混ざる。\n2026/3/18（水） # 睦月さんと「一月一日」について打ち合わせ。一月一日は10年くらい前に睦月さんとやっていたネットプリントで、そこに載せていた歌集読書会録（どう考えてもネプリでやるべき長さではなかった）を読みたいと言ってもらうことが何度かあったので、どうしようか、と持ちかけたのだった。\n崔盛旭『韓国映画から見る、激動の韓国近現代史』を少し読む。取り上げられている作品で観たことがあるのは『グエムル－漢江の怪物－』『タクシー運転手』『お嬢さん』くらいか。ポリティカル・フィクションとか、気になりつつもぜんぜん観てないな。\n2026/3/19（木） # 元気がなくブルアカの設定を延々と見ていた。ブルアカは一瞬やってたんだけど、素材は、というか、エッチな美少女ソーシャルゲームなこと以外はかなり好きだった。いやエッチな美少女ソーシャルゲームへの欲望を否定するものではないが、ラー油をかけずに食べたいものもあるというか……。\n2026/3/20（金・祝） # 昼過ぎに起きる。睦月さんと一月一日の作業をし、公開。正直、細かくは読み返していないし、今では考えが変わった部分もあると思うけれど、けっこう面白いことをやっていたとは思っているので読んでもらえたら嬉しい。\nその後、このサイトの公開のための作業をする。以前にある程度形は作っていたが、CSSの@importが効かなくなっていていらいら。全部1ファイルにまとめれば解決だけれど……うーん……。\n歌会へ。会場の会議室がなんだか「職場」っぽくて仕事っぽい気分になってしまい、打開のためにあれこれするが、よく考えたら私は仕事で会議室を使うこと自体ほぼない。すべての歌の評が終わってから選をするという初めての形式だった。私は結局、評の前から入れるならこれかなあ、と思っていたものにほぼそのまま入れる。自分の歌はけっこう自信があったが1点だけ。\n小川哲『嘘と正典』の最初の2篇を読んでいた。小川哲は『僕のクイズ』しか読んでない（これはかなり好き）が、今のところ読んだ作品はなんとなくベースの部分で似通っているものをが感じる。ちょっとナイーブな「男」が、自分の来歴を傍らに置いて語っている、というか。それが悪いということもないのだろうけれど。この間読んだ竹西寛子と馬の話が続いている。\n2026/3/21（土） # 昼過ぎに起きる。川崎市岡本太郎記念館へ。今月末でしばらく休館だからその前に来たかった。登戸で降りて生田緑地まで歩く。途中のブックオフに吸い込まれたり（欲しかった高階秀爾『20世紀美術』を買えた）、美術館の入り口が分からずさまよったり、競馬中継を観ていたりしたら思いのほか観覧時間が短くなってしまった。緑地の入口で桜を観た。もう咲いてるんだ。リモートワーカーには季節感がない。\n改めて岡本太郎の作品をまとまって観て、確かにエネルギッシュではあるけれど、なぜこれが大衆性を獲得できたのだろうと思う。本人にタレント性があったからといっても、タレント性だって勝手に手に入るものでもないだろう。\n岡本太郎現代芸術賞典も面白かった。この手の、コンクールの入賞者という以外の共通点のない作者の作品が並べられたコンクールの展示は、いまひとつ個々の作品に入り込みづらい気がするけれど、今回はもう明らかに会場自体が雑然としている、とっちらかっているせいか、むしろ入っていきやすかった。レイアウトが上手いのかな。\n向ケ丘遊園駅へ。そのまま帰るのも早いしどうしようか、と思案の末、祖師ヶ谷大蔵のBOOKSHOP TRAVELLERへ。祖師ヶ谷大蔵は降りるの自体はじめて。駅前にウルトラマンの像があり、ここかあ、と思う。お店で、短歌の本だらけの一角があるなあと思ったらうたとポルスカで、また、ここかあ、と思う。\n帰りに武蔵新城で降りて千年温泉に寄る。以前から名前は知っていたが、地名なんだ、というか「ちとせ」なんだ、と知る。銭湯料金で、温泉含めお風呂の種類も色々あっていい感じだった。黒湯は好きなんだけど、水の中が見えないのはちょっとこわい。\nBOOKSHOP TRAVELLERで買った『中東を学ぶ人のために』（世界思想社）の「アラブ小説」の項を読む。筆者が『ダマスカスへ行く 前・後・途中』の柳谷あゆみさんだ。中東の小説はカナファーニーくらいしか読んだことがない。\n2026/3/22（日） # 昼前に起きる。8時間以上寝て、頭がすっきりして気分がいい。いつもこれくらい寝れば創作も読書も仕事ももろもろももっと捗るんだろうな。\nこのサイトの公開のために作業をする。終わったら美術館にでも行きたかったが結局ほぼ一日かかってしまった。AIにいろいろ聞いたがほとんど解決せず、いらいらを募らせただけだった気がする。でも寝不足だったらもっといらいらしていたかもしれない。\n直し切れていない部分やまだ移行できていない過去記事はあるが、キリがないのでもう公開する。独自ドメインを取って準備を始めたのは今年の3が日だったので、随分なおざりにしていた。何年も前から「ブログに戻れ」と人には言いつつ自分ではろくに更新していなかったが、ブログでも個人サイトでも、とにかくSNS以外の場所でやっていくしかないよなあと思っている。\n","date":"2026年3月22日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2026/03/22/000000/","section":"ブログ","summary":"","title":"2026/03/16-22","type":"posts"},{"content":"","date":"2026年3月22日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/","section":"Tags","summary":"","title":"Tags","type":"tags"},{"content":"","date":"2026年3月22日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E6%97%A5%E8%A8%98/","section":"Tags","summary":"","title":"日記","type":"tags"},{"content":" 2026/3/13（土） # 前日ぜんぜん寝付けず。起きたら悪寒と胸の痛みがひどい。ただの寝不足か、それとも風邪の前兆か。以前はこれはほぼ取り越し苦労だったのだが、去年あたりから実際に風邪に移行するパターンが増えた。今年はすでに何度かある。葛根湯と、チューブの生姜やにんにくをひたすら飲む／食べる。\n退勤後（持病の薬を貰うため）病院へ。終わってから、コンビニで大学・大学院の成績・卒業証明書をコンビニで刷る。放送大学の編入・単位認定のために調べて、このシステムができていることをはじめて知った。一度、期限1週間のあいだに印刷できず800円無駄にしている。改めて成績を見るとだいぶひどい。今だったらもっと真面目に勉強するのに、当時の私は恥ずかしくなかったのか、と思うが、まあぜんぜん恥ずかしくなかったな……。そのまま郵便局に行って簡易書留で出す。\n帰りに横浜駅の有隣堂とブックオフに寄る。ブックオフでは基本的に安い本（文庫・新書なら220円以下、単行本なら390円以下のゾーンにあるやつ）しか買わないけれど、クーポンに「500円以上利用で200円引き」があったので今回はいいかなあ、と思って見ていたらいろいろ欲しくなってしまう。「10%オフ」もあるし、こっちを使って高い本を買ってもいいかなあ、と思ったら3000円分くらいになってしまった。 有隣堂では短歌研究の3-4月号と文藝の春号（そういえば未入手だった）を買う。\n2026/3/14（日） # 13時過ぎに起床。まあまあたくさん寝たら体調は良くなったので、今回はなんとかなったらしい。とはいっても夜更かししてるから、起床時間から想像されるよりは長くないんだけど。 今日の予定は決めあぐねていたけれど、bookpondのイベント「【ゆるトーク】みんなでつくる「インターネットご近所さん」──まちとのちょうどいい付き合い方」へ。面白かった。最近の私は、コミュニティとか人との繋がりは大事なんじゃなんか、なんて昔の私に聞かれたら激怒されそうなことを考えているけれど、示唆が多いイベントだったと感じた。「コミュニティ」化するかはともかく、案だけ出してその後動けていない歌書の読書会の件も進めないとなあ。\n電車に乗り吉祥寺へ。車内でさっき買ったZINE『インターネットご近所さんの本』と『BEAM』を読む。バサラブックス・一日・防波堤と周ったあと、吉城寺シアターで円盤に乗る派「いまのところまだ存在しているわたしのたましいが……」の当日券を買う。開演までのあいだに百年へ。累計で1万円くらい本を買った。紙袋が重い。\n円盤に乗る派はかなりひさびさに観る、というより演劇自体だいぶ長いこと足が遠のき気味だったけれど、面白かった。基本的にでかいところに繋がっていそうな話なのだけれど、急に社内政治っぽい話になるところとか特に。露骨に陰謀論者として描かれている（劇中でもそう突っ込まれている）人物の台詞が、部分的に、根拠は置いておけば納得できそうなことだったり、いかにも滑稽なエモーショナルな語りが、それを突き抜けて本当にエモーショナルさを感じさせられる瞬間があったり、といった点が印象的だった。\n以前読んだ岩波文庫の『トリスタン・イズー物語』はあんまり覚えていなかったし、それとワーグナーの脚本の違いも知らないし、だからワーグナーとこの演劇の違いも分からない。そういえば最近読みかけのドナルド・キーン『石川啄木』で、啄木はワーグナーの脚本に心酔していた（音楽は聴いたことがない）と書いてあったはずだが、いま、ワーグナーの脚本だけを手軽に読むことってできるのだろうか。\n昨今の社会、世界情勢をほぼずっと考えながら観ていた。この脚本がいつ完成していたのかは分からないが、演劇のこのアクチュアル性と、同時に予言性（それは「そうなってしまう」部分も含めて）は強みなのだろうと思う。やっている人たちは大変だろうけれど。演劇、もっと観たほうがいい。\nだいぶ今更にして、「円盤に乗る派」という名前、いいなと思った。\n終演後、ロビーに出たら後輩が手を振っている。\nなぜかロビーに置いてあった卓球？　をして、4人で鳥貴族へ。演劇の感想や、短歌やもろもろの話をして楽しい。 ↓の出来事が意味不明すぎて良かった。鳥貴族に行くたびに思い出すと思う。\n鳥貴族でリズム天国のミジンコ？　に肘をしばかれて手に持っていた箸が口に入ったの面白すぎた\r\u0026mdash; Sasaki Saku (@saku_cakey) March 14, 2026\r2026/3/15（月） # 夢。最近ヒットしたアニメ。キャラクターの案が一般投稿から選ばれる（昔の少年漫画みたいな？）作品で、終盤で出てきて、クーデターを起こして主人公を殺す悪役の賢者？　のデザインに、私の案が採用されたらしい。投稿作品のデザインの展示があったので観に行く。なんかピタゴラスイッチみたいなものが置いてあり（目が覚めてから考えると全然キャラクターじゃない）、不器用な私がなぜこんなものを作れたのか……？　と夢の中の私は疑問に思っていた。まあ実際はそもそも作れてないんだけど。起きた直後は、中身が違うだけで作品自体は実在すると思っていて、観てみるかあと思ったがそんな作品はなかった。\nちょっと寝不足だったので二度寝を試みるが眠れず。WBCの日本vsベネズエラを観る。野球の代表戦は日本代表に勝ってほしいという気持ちは正直あんまり湧いてこない。代表戦自体が好きじゃないというのはあるけれど、サッカーは（JFAがいろいろ嫌になるまでは）もうちょっと熱意があったと思う。普段あんまり見ない国・文化の試合を観るのは楽しいんだけど。\n今日〆切の原稿があり、確定申告は明日が期限。とりあえず確定申告からやることにする。確定申告はけっこう久々。以前したときに面倒すぎて、勉強しようと思いFPを取った（これを牛刀割鶏という）が、ほとんど忘れていてあまり役に立たず。原稿もやる。ヘンな連作にするつもりだったが、適切なヘンさがよく分からない。しかしともあれ出した。\n","date":"2026年3月15日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2026/03/21/000000/","section":"ブログ","summary":"","title":"2026/03/13-15","type":"posts"},{"content":" 短歌 # 準備中\n批評 # 定型における交換可能／不可能性について ――五島諭『緑の祠』を中心に―― 歴史について ","date":"2025年12月23日","externalUrl":null,"permalink":"/works/","section":"作品","summary":"","title":"作品","type":"works"},{"content":"","date":"2025年12月23日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/","section":"ブログ","summary":"","title":"ブログ","type":"posts"},{"content":"歌人・佐々木朔（ささき・さく）の公式サイトです。\nプロフィール\n作品・批評\nブログ\nお問い合わせ\nお知らせ # 2026/03/22 サイト開設 ","date":"2025年12月23日","externalUrl":null,"permalink":"/","section":"spoken-lang","summary":"","title":"spoken-lang","type":"page"},{"content":"お仕事のご依頼や、ご意見・ご感想などは以下のメールフォームからお願いいたします。\n3日以内に返信がない場合は、大変お手数ですが再度ご連絡をいただければ幸いです。\n読み込んでいます… ","date":"2025年12月23日","externalUrl":null,"permalink":"/contact/","section":"spoken-lang","summary":"","title":"お問い合わせ","type":"page"},{"content":" 名前 # 佐々木朔（ささき・さく）\n略歴 # 1992年 # 神奈川県横浜市に生まれる 2012年 # 早稲田大学文学部に入学 早稲田短歌会に入会 2013年 # 早稲田大学文学部ロシア語ロシア文学コースに進級 2014年 # 『羽根と根』創刊に参加 2016年 # 早稲田大学文学部ロシア語ロシア文学コースを卒業 同大学院文学研究科現代文芸コースに入学 2017年 # 『tanqua franca』参加 2018年 # 早稲田大学大学院文学研究科現代文芸コースを修了 早稲田短歌会を退会 2025年 # 第一歌集『往信』（書肆侃侃房）刊行 ","date":"2025年12月23日","externalUrl":null,"permalink":"/about/","section":"spoken-lang","summary":"","title":"プロフィール","type":"page"},{"content":"『往信』佐々木朔｜短歌｜書籍｜書肆侃侃房\n先日刊行した第一歌集『往信』を、ご希望される以下の団体にお贈りします。\n対象：主な活動に短歌が含まれる以下の団体\n大学・短大等、高等教育機関のサークル 中学・高校等、中等教育機関の部・同好会　その他、学生・生徒が主な構成員の団体（特定の教育機関に帰属するものでなくともかまいません） 以下の例のように、活動内容が短歌に限定されていない団体も対象とします 詩歌会 短歌セクションのある文芸サークル 短歌の合評・機関誌への掲載や、コンクール・大会等への参加をしている文芸部 下記の注意点をお読みの上、以下のフォームからご応募ください。\n歌集『往信』寄贈受付\n1団体につき1冊を謹呈します 送料はこちらで負担します 教育機関の公認・非公認は問いません 部室等がない場合、任意の会員個人に所持・管理いただいてもかまいません 他の会員で読みたいという方がいれば、貸してあげてください 団体の実在や活動実態を確認させていただく場合があります まだ立ち上げたばかりで、今後本格的に活動していくつもりである、といった場合でもかまいません 私の判断で、予告なく募集を停止させていただく場合があります。あらかじめご了承ください たくさんのご応募をお待ちしております。\n","date":"2025年4月12日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2025/04/12/182011/","section":"ブログ","summary":"","title":"歌集『往信』 学生サークル・部等への寄贈募集","type":"posts"},{"content":"","date":"2025年4月12日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E7%9F%AD%E6%AD%8C/","section":"Tags","summary":"","title":"短歌","type":"tags"},{"content":"（あたしはあたしの手札すべてを墓地に送り召喚されたモンスターだよ）\n／山中千瀬「グッドラック」『死なない猫を継ぐ』（典々堂、2025年）\n山中千瀬歌集『死なない猫を継ぐ』 | 典々堂 powered by BASE\nカードゲームの話だと思う。手札をすべて墓地に送ることで召喚されるモンスター。リスキーではあるが、その分強力な能力を持つ、派手な切り札なのだろう。物語であれば、主人公が使うそのモンスターの登場が一つのクライマックスになるような。\nしかし実際のカードゲームで、そういったカードが本当の意味で強い、言い換えれば勝利のために効率的なことはあまりないと思われる。多くのカードゲームにおいて、手札とは行動の継続力や選択肢の数に直結する重要なリソースだ。それをすべて手放してしまうようなカードは、往々にしてコストにリターンが見合わない1。仮にそのモンスター自体は召喚できれば圧倒的に強力だとしても問題はなくならない。もっとローリスクで、現実的にゲームに勝利できる程度の強さを持つ代替案がある場合がほとんどだ。一体のモンスターに命運を託すのは、あまり合理的なプランではない。手札がなければ、他のモンスターを召喚することも、召喚した「あたし」を守るためのカードを使うこともできない。\nそう、召喚されたモンスターは「あたし」だ。「あたし」はひとまず召喚された。でも、相手が「あたし」を害するようなカードを使ってきても、対応できるかは心許ない。後続のモンスターも、もう来ないかもしれない。手札がないのだから。\nそんなことは分かってる。だって召喚したのも「あたし」だから。「あたし」は、プレイヤーという特権的な立場すら手放してフィールドに降り立った。\nモンスターはプレイヤーよりずっと危険に晒されている。敵のモンスターにまず攻撃されるのはたいていモンスターだし、プレイヤーを直接的に倒すカードはそうそうない2けれど、モンスターを一撃で墓地へと葬るカードはいくらでもある。一首全体に括弧が掛かっているのは、モンスターになったがために、人間の言葉で発話ができなくなったからだろうか。\nでも、モンスターにならなければ、相手のモンスターと戦えない。その後ろにいるプレイヤーも倒せない。ゲームのルールはそう決められている。たぶん、相手はすでに大量のモンスターを召喚して、こちらを待ち構えている。自分がモンスターにならないといけない、操れるモンスターなんていない「あたし」にとってはとても理不尽なゲームだ。だけど、やってやる。\nリスクとリターンなんて関係ない。自分がこのゲームにおいてどの程度強い存在かも、代替案があるか、他の誰かがやってくれるかもどうでもいい。守られなくても、味方が来なくてもかまわない。傷付けられても、墓地に送られるとしても、誰にも声が届かなくても。プレイヤーと違って、モンスターは負けてもそこでゲームが終わるわけじゃない。墓地から復活することもある。\n「あたし」は戦う。プレイヤーに、オーディエンスに見下ろされながら。モンスターを操り、自分たちを傷付けてきた相手プレイヤーを倒すため、そしておそらくは、かつて自分が墓地に送った手札のように、いつか、このゲームそのものを終わらせるために。\n「グッドラック」は『短歌研究』2023年4月号の特集「短歌の場でのハラスメントを考える」に寄稿された連作で、そのことは『死なない猫を継ぐ』のあとがきでも言及されている。掲出歌はその一首目だ。\n連作には、手が印象的に、何度もあらわれる。\n流されんためにつないだ手かもだけど渡り終えても触れていいかな\nきみのことは知らない何も左手に空っぽの水鉄砲さげて\nよろしくじゃないよな　それでも手を伸ばし友だちとゆく花道なんだ\n手札すべてを墓地に送った「あたし」にも、それでも手を伸ばし、つないでゆける友だちがいることに、すこしほっとした。\ncf. 川野芽生「この世の語彙で」『幻象録』（現代短歌社、2024年）\n現実的には「手札をすべて墓地に送る」ことが召喚条件のモンスターを使うならば、多くのプレイヤーは手札を全て使い切ってから召喚するプランを検討するだろうけれど、その行動自体にも一定のリスクはあるし、この歌がしたいのはそういう話ではないだろう\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n即座にゲームに勝利する、いわゆる特殊勝利系の効果を持つカードはあるけれど、普通はその効果は「ゲームに勝つ」といったように書かれる。「相手は死ぬ」とは書かれない\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2025年2月4日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2025/02/04/030815/","section":"ブログ","summary":"","title":"（あたしはあたしの手札すべてを墓地に送り召喚されたモンスターだよ）／山中千瀬　#死なない猫を継ぐ","type":"posts"},{"content":"","date":"2025年2月4日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E4%B8%80%E9%A6%96%E8%A9%95/","section":"Tags","summary":"","title":"一首評","type":"tags"},{"content":"ぜんぜん記録を付けていないので間違いなく漏れがある。\n本 # ケイト・ウィルヘルム『鳥の歌いまは絶え』 # 今年読んだ本で一冊だけ挙げるならこれ。三部構成で進展していくディストピアのビジョンも秀逸だけれど、ラストの主要登場人物二人の別れのシーンがあまりにも鮮烈だった。\n小泉悠『「帝国」ロシアの地政学 「勢力圏」で読むユーラシア戦略』/同『現代ロシアの軍事戦略』 # 東欧現代史の研究をするつもりで大学に入った日は遠い昔に思えるけれど、まったく、本当に嬉しくない理由でかの地域に関する本を多く読む一年になってしまった。中でも小泉氏の本は勉強になった。文章も上手いし。\nロシアの政治・軍事関連書は積んでいるものも多い（正直読んでいてしんどくなることもある）ので、来年も少しずつ崩していくことになるでしょう。願わくは、一刻も早く戦争が終わりますよう。\nジェイムズ・P・ホーガン『星を継ぐもの』 # 読んでいる間の楽しさはSFというよりむしろミステリに感じるそれだったと思う。\nだいたいオチの予想が付いてしまったのは、昔「rewrite(key)を読んだ後に読むべきSF小説10選」的な記事（たしかはてなブログだったはずだがググっても見つからない）で挙げられていたから。\n岡田利規『わたしたちに許された特別な時間の終わり』 # 「三月の5日間」（小説のほう）をいまさら読んでとても良いと思ったのだけれど、その感じた良さを具体化するとほとんどロマンチシズムなので、この話にロマンを感じる自分の倫理観や批判精神を疑ってしまう \u0026mdash; Sasaki Saku (@saku_cakey) May 27, 2022 文体、語りあってのものだとは思う／思いたいが \u0026mdash; Sasaki Saku (@saku_cakey) May 27, 2022 （いつもこうやって感想を書いておいてほしかった） 鴨志田一『青春ブタ野郎』シリーズ # エンタメ作品で「土地」が描かれること、またそれを読むことには、いわゆる純文学などとはまた違う喜びがあると思った。それが自分にとって親しみのある場所ならば余計に（明らかに私の生まれたそれがモデルの病院が出てきてウケた）。\nしかししばらく新刊が出ていないようなので、あるいはもう出ないのでは……と書こうとして、念のため調べたら最近出たらしい！　今度買いに行こう。\n映像 # カンテミール・パラーゴフ『戦争と女の顔』 # 今年観た映像作品で一番はこれ……だけれど、下に引いた鑑賞直後の感想から、消化しきれていない。観直したいと思う一方で、正直しんどいし怖い。\n『戦争と女の顔』（この邦題を許容するかはともかく……）、たぶんすごい映画だし、ひとにも観て欲しいのだけれど、鑑賞体験として相当にハードなので、「男」である自分がそんな簡単に薦めて良いのか？　という思いがある \u0026mdash; Sasaki Saku (@saku_cakey) July 30, 2022 倫理的には露骨に最悪（本当に超最悪）な振舞いをしている登場人物への批判に、心情面でストッパーがかかってしまうの、体験としてしんどい \u0026mdash; Sasaki Saku (@saku_cakey) July 30, 2022 他にも『犬は歌わない』『チェチェンへようこそ ―ゲイの粛清―』『ドンバス』『バビ・ヤール』『ナワリヌイ』など、ロシア/ソ連がらみのドキュメンタリーやその手法を使った作品を多く観た。純粋な劇映画を観るのがしんどかった気もする。\nバーバラ・ローデン『WANDA』 # 宣伝などから、主人公を「社会に適応できない人間」として描く作品だろうか、と先入観をもって映画館に行った。実際に観てみると、主人公個人についてはまあその通りとしても、対比として「社会」の側になるかと思われた男性のほうもまた、それにしては「社会に適応」できていなさすぎて、単なる図式的な範疇に留まらず、（良い意味で）納得に至らない作品だった。男性のああいった行為を見ると、同じような性自認を持つと思しき人間としては、どうしても怒りや、自己への不安・嫌悪に囚われてしまうけれども。\nあと、ああいった人物として描かれた主人公が、ともあれ運転免許は持っているようで、また車の運転自体はなんとか事故も起こさず行えていた点に、アメリカ（の地方部？）っぽさを感じた。そういった地では、運転もまったくできない、できないと見做される人はどうなるのだろうか。\n幾原邦彦『輪るピングドラム』（アニメ版）/『RE:cycle of the PENGUINDRUM[後編] 僕は君を愛してる』 # アニメ版を一気観し、その数時間後に劇場版の後編（上映終了直前だった）を観た。\n演出の快楽は勿論のことながら、ストーリーはさんざん言われていることだろうけれどとにかくヤバい親が多すぎる。あの手この手で虐待を描いてきて、劇場の音響で聴くとキツいシーンも多かった。\n一番好きなキャラクターは荻野目苹果です。あと劇場版の新曲めっちゃいい曲でしたね。\n斎藤圭一郎『ぼっち・ざ・ろっく！』 # めちゃくちゃ久々にリアルタイムでアニメを追いかけた。たぶんまどマギ以来？　今のところ一番好きな曲は「カラカラ」です（まだアルバム買えてない）。ボーカルの透明感と熱さの塩梅がめっちゃいい……。\n金沢八景、下北沢、江ノ島と、それなりに馴染みがある場所が舞台になっていたのも嬉しかった。\n原作も買った。アニメの範囲より先のほうがもっと好きなので、ぜひ2期もやってほしい。「グルーミーグッドバイ」が聴きたいです。\n展覧会とか # 「工藤麻紀子展　花が咲いて存在に気が付くみたいな」（平塚美術館）がとても良かった。身体から余計な力が抜ける感があった。ファンになりました。\n他に印象に残っているのは以下のあたり。\n「アレック・ソス　Gathered Leaves」（神奈川県立近代美術館 葉山館） 「生誕100年　ドナルド・キーン展―日本文化へのひとすじの道」（神奈川近代文学館） 「自然と人のダイアローグ　フリードリヒ、モネ、ゴッホからリヒターまで」（国立西洋美術館） 「ゲルハルト・リヒター展」（東京国立近代美術館） 「ヴァロットン―黒と白」（三菱一号館美術館） 文筆 # 発表は『ねむらない樹』9号の渡辺松男特集へ寄稿したエッセイ（「長い・遅い・あやしい」）のみ。短歌作品は発表ゼロで賞にも出せず。\n短歌のメモを見返すと、上半期は歌自体の数は（当者比なら）それなりだが、職場が変わってテレワークになったあたりから激減している。私の場合歌が一番できるのは歩いているときなので、必然ではある。来年はもっと外に出ましょう。\n","date":"2023年1月1日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2023/01/01/020008/","section":"ブログ","summary":"","title":"2022年の振り返り","type":"posts"},{"content":"","date":"2023年1月1日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E6%84%9F%E6%83%B3/","section":"Tags","summary":"","title":"感想","type":"tags"},{"content":" 2/1（火） # 明け方に地震で起こされて1時間ほど眠れず、その後も良く分からない夢（人類を滅ぼしつつある謎の生命体の根拠地が足柄にあって、山北あたりが最終防衛線になっている、とか）ばかり見せられて断続的に目が覚め、朝起きたときは意識が朦朧としていた。普段の寝起きは悪い方ではないと思うけれど、たまにこういう日がある。\n月が変わるとはつまりクレジットカードの引き落としが1か月先になることで、勇んで職場近くの本屋に行ったけれど、目当ての本が1冊もなくて悲しい。悲しすぎたので途中下車して別の本屋で漫画を買った。\n【買った本】絹田村子『数字であそぼ。』3-7.先日無料キャンペーンで2巻まで読んで面白かったので。\n【勉強】『データベース3000』の2章から3章の途中まで。昼休みしか勉強しなかったので反省。\n2/2（水） # 通信制の大学のことを調べていたら夜更かししてしまった。金銭的にも生活的にも、現状では夢想の極みのような話なのだけれど。\n勤務中、求人のページができたから確認するようにとのお達しでアクセスしたら、その後あちこちのページの広告で弊社の求人情報を見せられた。ターゲッティング広告の限界を感じる。\n【勉強】『データベース3000』3章終わりまで。昼休み＋帰りの電車でもやったのでえらい。\n2/3（木） # 睡眠不足だから今日は早く寝よう、と思ったときに想定している「早く」とは22時や23時のはずなのに、気が付くとそれが0時、ややもすれば1時に擦り替わっているのはなぜだろう？　これを書いている今ももう0時前だし。\n【勉強】『データベース3000』4章の半分くらい。でも眠かったのであまり頭に入っていない気がする。\n2/4（金） # オリンピックで最も重要な競技「開会式の選手入場を観ながら各国の蘊蓄を言う」が始まって終わった。\n【勉強】『データベース3000』4章終わりまで。\n2/5（土） # 祖父の四十九日。私は物心が付いたとき＝17-8歳のある朝よりも前のことを断片的にしか覚えていなくて、それ以前の自分がどのように人と接していたかも分からない。だからこういった、親戚をはじめそれ以前からの知人と会う、思い出を語る場に出ることには結構な心理的負担を感じるのだけれど、今回は人に言われて思い出すことも多くて良かった。祖父に将棋を習ったこととか。\n葬儀のときもそうだったけれど、読経というのは一つのパフォーマンス、芸だなあと思いながら見ていた。仏教式の葬儀に出るのは初めてだったので。\n【勉強】『データベース3000』5章の途中まで。5章に入って途端に知らない単語が増えてきた。\n2/6（日） # まだ19時前だけれど、何もしていないし、今後も何もしないと思う。せめて掃除くらいはしたいのだけれど。あと早寝。\n追記：掃除は達成。早寝は達成できず（0時過ぎまで起きていた）\n2/8（火） # テレワークになった。テレワークは私にとっては良いことずくめなのだけれど、なんとなく残業してしまうのは良くない。まあ残業したところで出社して帰宅するよりも早く自由になれるのだけれど。\nあとはまあ完全に自分の問題だけれど、数少ない勉強や読書時間である通勤や（職場での）昼休みがなくなる。今はまだ19時台なので、少しは何かしたい。\nオリンピックのフィギュアスケート男子をちょっと観たので、感想を箇条書き。\n応援している鍵山くんが良い演技で嬉しい。彼の練習拠点のリンクは私の地元で、幼稚園や小学校では冬になるとしょっちゅう行っていたところ。小学校は体育の授業扱いだったようだけれど、普通の公立小なのに良かったのかな？（冬に普通の体育をした記憶が全然ない） ネイサン・チェンの演技は多分ひさびさに観たけれど、こんなにダイナミックだったっけ？　ジャンプよりスピンやステップのほうが凄みを感じた。 ジェイソン・ブラウンはやっぱり格好良い。人間は氷の上であんなにも動けるものなのか、と思った。 2/9（水） # ひさびさに昼間のみなとみらいを歩く。高島水際線公園の鴎（たぶん）が、かなり近くまで寄っても飛び立たなくて良かった（？）。帰りに横浜駅西口の有隣堂に寄る。買った本は以下。\n小泉悠『「帝国」ロシアの地政学』：昨今の情勢にあたって、一応露文出身者の端くれとしてある程度は背景を知っておいたほうが良いと思って。 水原紫苑編『女性とジェンダーと短歌　書籍版「女性が作る短歌研究」』：そういえば買ってなかった。 芳沢光雄『離散数学入門　整数の誕生から「無限」まで』：基本情報の分野に離散数学というものがあり、合格したのだから勉強したはずなのだけれどそれがどの部分を指しているのか全然分からなかったので。ぱらぱら立ち読みした限り現状では入門すらできない気がするけれど、こういうものはやる気があるうちに手元に置いておかないと永遠にやらないので……。 2/10（木） # 前日夜更かししてしまい、仕事中はまあ平気だったけれど終わった途端眠くなった。そのくせ眠いまま明け方まで起きていたのでダメダメ。フィギュアスケートは観た。\n【届いた本】長岡亮介『総合的研究 数学I+A』\n大人が数学を勉強するのに、受験参考書は効率的にも本質の理解の面でもあまりよくないと言うけれど、好きなやり方をしても良いだろう、ということで。分厚い参考書を地道にやる、みたいなのに憧れがある（やったことがないので……）。あと参考書みたいな実用性重視のジャンルの本に「研究」って付いてると格好良くない？\n2/12（土） # 歯医者と散髪に行く。歯医者で治療を受けるのは数年ぶりで、日頃もあまりしっかり磨けている気はしない（一応回数だけはやっている）のだけれど、そんなに汚くないと言われて逆に気味が悪い。\n散歩のついでに古本屋を回って本を買った。\n黒田龍之助『ポケットに外国語を』（ちくま文庫） 森毅『魔術から数学へ』（講談社学術文庫） 津田一郎『数学とはどんな学問か？』（講談社ブルーバックス） なんだかもう「数学」とタイトルにある本を手当たり次第に買っているようなありさまで、これではただの数学コンプでは？　という気もするが、まあどれかがとっかかりになれば幸い、というくらいのつもりで買っています。 2/13（日） # ひとと会う。喫茶店のケーキが安すぎて不安になった。竹内薫『竹内薫の「科学の名著」案内』を途中まで読む。\n2/14-20 # 丸一週日記をさぼってしまった。勉強もほとんどしていない。\n竹内薫『竹内薫の「科学の名著」案内』\n読了。ところどころから垣間見える著者の政治的立場が気になったというか、私があまり好ましく思えるものではなさそうな気がした。はっきり見せられている部分はそれで良いのだけれど。\n白鳥士郎『りゅうおうのおしごと！』7・9\n読了。巻数が飛んでいるのは図書館で予約から届いた順による。\n小泉悠『「帝国」ロシアの地政学』\n拾い読み中。知的関心として面白いのだけれど、現実の情勢が進行しているなかで読むのはしんどい面もある。\n2/21（月） # ロシアの国家安全保障会議の中継（録画では？　という疑惑も出ているようだが）を観ながらこれを書いている。一応露文出身の意地でタス通信で観ているがなにも聴き取れない。まあどうせ英語字幕があっても大差ないし……。英語がある程度できるようになったらロシア語をやり直そう（「直す」と言ってよいのかすら怪しいが）とは思っているが、今の調子だといつになることやら。\nウクライナ情勢、という言い方が適当かは分からないが、ともかくそれには一定の関心をもって情報を追いかけているけれど、それは一応私と関わりがある、もっと言えば関わりがあるということにしたい地域・分野の話だからであって、世界のほとんどの戦争・紛争へは無関心だ。そしてその「関心」も、こんなサーカスを意味も分からぬまま流して、適当なところで明日は出社だから眠る、という程度のものでしかない……などという自己否定すらあまりに凡庸だけれど。\nそうこうしているうちに中継が切れた。砲撃が始まったというツイートも目にしたけれど、明らかに10分どころではなく経っているのでとりあえず寝ます。\n2/22（火） # ウクライナが気になるのと寝不足で集中力を欠いていた。専門家や有名人のTwitterアカウントは、普段は気になったときにhomeへ見に行くのだけれど、その行為をするのが心理的負担になってきたので受動的に読めるよう何人かフォローした。\n2/23（水） # マリノス対川崎を観る。やっぱり川崎に勝つとたいへん気分が良い。しかし相変わらず守備はひどいのでなんとかしてほしい、特にセットプレーの。まあスタメンの半分以上が170cm未満ではどうしようもないのかもしれない。この状況だと渡辺皓太あたりは割を食うかもなあ。まあ皓太を下げた後もやられてたけど……。\n2/24（木） # 戦争が始まってしまった。ひたすらインターネットに張り付いて情報を集める。娯楽として消費しているだけでは？　という疑念を自分に抱きつつ。\nサンクトペテルブルクのネフスキー大通り、ちょうど6年前に短期留学で滞在していた場所で反戦デモが行われている。現実感がない。月並み極まりない感想だけれど、ロシアで反政府的なデモをするのは凄い勇気だと思う。留学中に遭遇したデモは全て政府の方針に沿うものだった。ノヴゴロドでの「クリミアはロシアのもの」（ロシア語でどう言うのだっけか……）など。\n2/25（金） # 戦争は続き、一方で早くも決着が近づいてきたというような報道も。戦争には早く終わってほしい、しかしこの決着は明らかに私の望むものではない。気になったニュース。\nウクライナ政府が総動員令を出した。キエフ市民には火炎瓶（モロトフ・カクテル）での抵抗を求めているらしい。そのことで一般市民が被害に遭う可能性が高まることは間違いないだろう事実で、しかしそれを要求した政府に、戦争阻止にも防衛にも何の実効的な貢献ができなかった国の人間がどういうスタンスを取れば良いのか分からない。どうせ結果は決まっているのだから余計な犠牲を増やすのはやめるべきだ……とは言えない。 カディロフとその私兵が投入されるという報道も。正規軍同士の戦闘に必要な戦力ではないし、かといって戦後処理要員としてもわざわざチェチェンから連れてくる必要ある？　という感じだけれど、マジでウクライナ人を痛めつけたいだけなのか？　戦闘が（予想される結末で）終わったとしても、そのあとも酷いことになりそうで気が重くなる。 情報の海にだけ溺れていても仕方ないので、『「帝国」ロシアの地政学』の飛ばしていた箇所を読み進めた。\n【追記】\n書き終わったところで、ウクライナ軍がかなり善戦しているのでは？　という記事を読んだ。またプーチンは事実上無条件降伏しか容認しない（こちらは残念ながら予想通りだが）という情報も。\n前者を単体で見れば、真実であれば私にとっては望ましいニュースだけれど、しかし絶対に無条件降伏しか容認しない相手に対して善戦することは一体何をもたらすのだろうか。これは反語ではなく本当に分からない。\n2/26（土） # 歯医者に行く。半年くらい経ったらまた来てくださいと言われて、前に行っていた、やたらと通院を求める歯医者はなんだったんだ、と思う。金がないので行かなくなったけれど。\n2/27（日） # ひとと会う。軍事と政治の話ばかりになってしまった。もっと楽しい話をしたいのだけれど。\nロシア側が戦力核をちらつかせた、というニュースを見る。人類が滅びるとしてそれは仕方ないが（いつかは必ずそうなるだろう）、経済制裁に核を持ち出す個人のせいで滅びるのは勘弁願いたい。\n","date":"2022年2月1日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2022/02/01/234149/","section":"ブログ","summary":"","title":"10分以内で書く日記/202202","type":"posts"},{"content":"","date":"2020年8月4日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E3%82%B5%E3%83%83%E3%82%AB%E3%83%BC/","section":"Tags","summary":"","title":"サッカー","type":"tags"},{"content":"　僕がマリノスを応援しはじめたのは2010年のワールドカップのあとで、だから僕はその選手が活躍しているところをあまり見たことがない。\nサポーターからは「マツ」と呼ばれている彼が日本代表としてワールドカップにも出たことのある選手で、生え抜きの「ミスターマリノス」であるということは知っていた。スタメン発表で名前がコールされたときのスタジアムの盛り上がりも体感した。けれども松田が出たワールドカップは、中村俊輔が落選した代表発表会見くらいしか印象にない8年前のもので（当時は野球少年で、会見を見たのもたまたま友達の家にいたからに過ぎない）、2010年の松田の見せるパフォーマンスは彼が浴びている大歓声ほど特別なものには見えなかった。\nそういうわけでそのシーズンの終了前に彼が契約非更新（要はクビだ）になるというニュースがスポーツ新聞に踊っても僕にはさしたる感慨もなくて、多くのサポーターがインターネットで怒っているのも、クラブハウスの前に座り込んで撤回を求めていることにも全然ピンとこなかった。別に嫌いなわけじゃない、新米ファンであっても知っていた彼にまつわるエピソードには、人間的な魅力を感じるものが多かった。でもプロスポーツなのだから戦力にならないと判断された選手と契約しないのはしょうがないことじゃないか。ちょっと反発した。\nシーズンの、そして松田にとってマリノスでの最後の試合はテレビで観た。試合後の監督や社長のスピーチは、大ブーイングと松田のチャントでかき消されていた。ナーオーキ、ナーオーキ、ナーオーキ、直樹オレ！　なんだか居たたまれない気分になってテレビを消したので、彼のマリノスでの最後の挨拶は観ていない。\n翌年の8月、日課どおりインターネットでマリノス関連の情報を収集していると、松田が移籍したチームの練習中に倒れたというニュースが目に飛び込んできた。サポーターはみんな祈って、そのことをSNSや掲示板に書き込んでいて、僕も祈って、でも書きこむことはできなくて代わりに動画サイトを彼の名前で検索した。ディフェンダーというポジション柄か、プレーしている映像はあまり見つからなかったけれど。例の最後の挨拶もそのとき観た。モニターの中の観客は怒っていたり泣いていたりしていて、今はこのひとたちがみんな泣きながら祈っているのだろうかと考えた。\nしかしいまさらいくら映像を観ても過去に遡って松田と時間を共有することはできないのだ。僕は部外者だった。\n8月4日、桜木町の中央図書館から歩いて帰る途中、少し遠回りしてマリノスタウンの近くを歩いていると、突然大粒の雨が降ってきた。空は晴れているのに。インターネットを見ると「涙雨」という語がいくつも書き込まれていて、彼が亡くなったことと、知らなかった言葉を知った。\n2015年、大学でもぐっていた創作系のゼミで、スポーツにまつわる文章という課題で提出したものに加筆修正した。私以外にサッカーに関心がありそうな参加者はおらず1、討議はまるで盛り上がらなかったのだけれど、飯田出身だという後輩が、この選手の話をテレビで観た記憶がある、と言っていた。その人は松本山雅のこともうっすらとしか認識していなさそうだったけれど、むしろそういう人の頭の片隅に松田が残っていることに、なんだか感慨というか、救われたような気持ちが湧き上がってきて、少し泣きそうになったことを覚えている。\nもぐりを含め2-30人ほどのゼミ生（もぐりを含む）のうち、プロ野球についても日常的に観ていそうなのは私以外に1人だけだったので、エンターテイメントとしてのスポーツ（観戦）とは親和性の低い場だったのだと思う。他に学内スポーツ紙の記者はいたけれど\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2020年8月4日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2020/08/04/224148/","section":"ブログ","summary":"","title":"松田直樹のこと","type":"posts"},{"content":"ショッピングモールはきっと箱舟、とささやきあって屋上へ出る\nこの歌の構成要素の重要度に順位をつけるとしたら、①ショッピングモール＝箱舟という発想、②「屋上へ出る」という着地点だと思うけれど、③にあたる「ささやきあって」というディテールこそがイメージを喚起し、読者に歌を体感させるわけで、そこを書けるかどうかが作者としての力量の分かれ目なのだろう。\nケータイを畳み両手で胸に当てあこがれこがれこわがるなかれ\n「だるいせつないこわいさみしい」1の順番をしばしば忘れる私でも、「あこがれこがれこわがるなかれ」は初読から忘れたことがない（「こわがるなかれ」は一纏めだしアンフェアな比較だけれど）。読んでいると胸がどきどきするような、甘酸っぱい気持ちになる。\n子どものころのことを訊かれてある雨の夜の搭乗ゲートを告げる\nおみくじをすんと結びぬ　妹の祈るいい画 (え) もとれたことだし\nお姉ちゃんみたいなひとがまたひとり人妻になる　縁石をゆく\n「お姉ちゃん」ではない人を「お姉ちゃんみたいなひと」と捉えることは、自分との間に何らかの関係性が結ばれることへの欲望を示唆しているけれど、それが具体的にどういったものかはそこまで明確にはならない。それは社会において、男性が2「お姉ちゃんみたいなひと」と他者（たいていは女性だろう）を思うことは肯定されがたく、欲望が隠匿されてきたからだろう。一方で「人妻」という捉え方は社会に溢れていて、そう名指すことがほとんど特定の欲望の言明と不可分だ。\n相手を「人妻」として捉えることは、「お姉ちゃんみたいなひと」に／との間に自分が望んでいたものを固定しかねない。それは読者の読解上も、そしておそらくは主体自身の内面においても。けれども、特定の感情に回収しがたい――危うさの喩のような行為とも取れるし、それこそ「お姉ちゃんみたいなひと」と捉えることが社会に承認されやすい幼少期に軽やかにやっていたことでもある――「縁石をゆく」で歌が終わることにより、欲望はぎりぎりのところで固定されずに済み、そのことに正直なところ安堵し、安堵していることを自覚してどれほど自分がこの歌に捕らえられていたかに気づいた。\nぼくの夢は夢を言いよどまないこと窓いっぱいにマニキュアを塗る\nでもこれは記録だ。ぼくのかじかんだ手が書く一度きりの夕焼け\nFor You（短歌15首） - みなそこすなどけい２\n志村貴子『放浪息子』がエピグラフに引かれた連作から。この連作「For You」3は短歌による二次創作として最良のものと信じているけれど、なかでも最初と最後の歌にあたる、それぞれ冒頭で最終巻にある言葉を引用しているこの二首は、そこからの展開のしかたが本当にすばらしい。\n美樹さやかに僕はなりたい鱗めく銀の自転車曳くゆうまぐれ\n今は忘れられたTwitterアカウントでの青年時代には私は美樹さやかアイコンだった。私は今でも美樹さやかになりたいだろうか？\nだが会いにゆかねば遠く尖塔がふかぶかと藍にしずむ夕暮れ\n倒置でもないのにいきなり接続詞からはじめ、前提条件を隠匿することで主体の思いをクローズアップする、という現代短歌にありがちな技法4を用いた歌は、往々にして切迫感や息の苦しい感じを与えるけれど、この歌にはどこか余裕や息の長さが感じられる。いや、「だが」と言っているからには何らかの懸念や葛藤はあったのだろうけれど、それはもう済んだことで、とっくに覚悟は決まっている、というか。「ふかぶかと藍に」の八音が効いていると思う。\n終バスを映画で逃す　雨音をやがて失う世界を歩む\nバスを逃して歩いて帰っている、という出来事と歌を読んで受ける印象があまりにかけ離れている。世界からはいずれあらゆるものが（世界そのものさえも）失われる、という立場に立てば、「（）をやがて失う世界を歩む」にはいま世界に存在する任意のものを入れればよく、そういう歌だと思っているけれど、そこで「雨音」を選ぶのは格好良すぎない？\nサバンナの象のうんこよ聞いてくれだるいせつないこわいさみしい／穂村弘\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nいや主体が男性とはこの歌にも歌集のどこにも書いてないのだけれど\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nこのタイトルもアニメ版のED曲から取っていると思われる\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n便宜的に「逆言いさし」なんて呼んでいるけれど、我ながらダサすぎるので適切な呼称があったら教えてほしい\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2020年1月4日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2020/01/04/002653/","section":"ブログ","summary":"","title":"笠木拓『はるかカーテンコールまで』十首選","type":"posts"},{"content":"　第二十九回文学フリマ東京で購入。機関紙なのか機関誌なのか。表紙や奥付は「紙」だけれど、巻頭言は「誌」になっている。辞書的には「誌」と呼ぶべき形態だと思うけれども。\n会員の連作・一首評に加え、ゲストの岡野大嗣・初谷むいの作品とダブルインタビューが掲載されている。\nこの先コンビニはありません　こういうのすぐ撮るよね、いい感じに撮れた？\n／岡野大嗣「ゆきとかえり」\n歌を複数の部分に分けてポリフォニックにする、というのは現代短歌ではだいぶ定着した手法だけれど、この歌では最初の声と思われたものが実は「声」ではないところに裏切りがある。そして三句以下の（今度は正真正銘の）「声」の発話者がいて、それを受け取っている、看板？　を撮った、沈黙の「声」の発話者がいる。短歌一首に三人以上の人間を、いわゆる「顔を持つ」ものとして登場させるのは難しいなんて言うけれど、この歌には二人と一枚（？）が実に生き生きと登場していると思う。\nダブルインタビューはめちゃくちゃ長い。これで何万字くらいになるのだろう。\n聴き手側が自身の主張をどんどん展開するところが、良い意味で学生サークルの機関誌っぽいなあと思う。\n岡野：音楽だと初期衝動みたいなのが出てることが多いじゃないですか、1stアルバムとかって。歌集って結構みんなある程度経ってから出すから、ホントは載せてても良いような、ちょっと青臭いやつとかが載らなかったり落ちたり自分で削ったりすると思うんですけど、\n青松：１周してから出す風潮はありますよね。８年くらいやってこう……見えてきた、みたいな。\n岡野：みんな第３歌集みたいな第１歌集になってくるような気がして。\n確かに、と思った。最初数年の歌は全部捨ててしまうという人もけっこういるけれど、そのなかにも好きな歌が合ったりすると勿体ないなく感じる。\n歌人は歌集を出すとき、自らの美意識にそぐわない歌は徹底的に捨てがち（まあ出したことないから本当のところは分からないが）で、それが美徳とされる傾向もある気がするけれど、もう少しファジーに作っても良いのかもしれない。\n青松：今、2019年に生きてる（ほとんどの）人って、短歌を好きになるより（前に）絶対に音楽とか、他のカルチャーを好きになるフェーズがありますよね。最初に好きになるカルチャーが短歌って、あんまりない。 この記事で書いた話とたぶん近い。　初谷：あと新鋭短歌で好きな歌集は、学生短歌が大好きな『トントングラム』、『緑の祠』。\n青松：その二冊は学生全員読んでるんじゃないかとっていう。\n初谷：学生全員読んでる説ありますね。みんな大好き。\n私はその2冊が刊行された頃まだ学生だったけれど、特に『トントングラム』に関しては、「学生短歌（会）」とは割とフィールドが違うものだと思っていたので、今はそうなっているのかーと思った。『緑の祠』にしても私はとても好きだけれど、「学生全員読んでる」という印象はまるでなかったし。もっとも私は早稲田短歌会と言う学生短歌会のなかでは相対的に規模の大きい団体にいた一方、他のサークルとの交流はそこまで多くなかったので、「学生」で想像している層が違う可能性はある。\nインタビュー中で引かれていた歌から。\n炭酸のペットボトルに花をさす　猫扱いもうれしかったよ　今さら？（笑）\n／初谷むい\n定型が終わってからすべてをひっくり返す「今さら？」のみが強く記憶に残る。アンチ短歌的短歌？\nぼくはもうこれがトゥルーマン・ショーだって気づいたぜ　ロン　九蓮宝燈\u003c (ちゅうれんぽうとう) ／濱田友郎\n何度見ても名歌だと思う。九蓮宝燈を和了る機会があったら絶対に言いたい。もう何年も麻雀やってないけれど。\n会員の連作は10本・一首評は1本。巻頭の目次に会員作品の情報がなかったので、中扉にはあるかと思ったがなかった。目次はつけてほしい。\nハイスピードカメラでゆっくりな動画を撮ってよなにかを忘れるほどゆっくりな\n雨の音　というより金属の音　うるさい　うるさくて眠れない\n／青松輝「metaphor」\nハイスピードカメラで動画を撮ってほしい、という現代的な・些細なものだったはずの要求が、歌の終わりには、なにか呪術的な、不穏で危険な求めに変化している。\nサッカーのVAR1で、スロー再生をするとファウルにより厳しいペナルティを科す傾向にある2という問題も思い出した。「スローは強さ・速さ、インパクトの衝撃が全部見えなくなって、『ぶつかったかどうか』という現象だけにな」るという話が端的に表しているように、ひどくゆっくりな映像は現実感を喪失させるから、その延長で記憶を失うこともあり得るかもしれない。大幅に字余りしていた上句から下句でほぼ定型に収まることにより、読みが減速されることともシンクロし、この下句自体が「なにかを忘れるほどゆっくりな」ものなのにも感じられる。とても好きな歌。\n二首目、「うるさい」と言っているけれど、歌のトーンはまったくうるさそうに見えない。そのせいで「うるさい」と感じている主体の内面がむしろフォーカスされる。\n連作としてもとても良かった。\n何でもない日に僕たちはおしゃれして行くんだスタジオ・アリスに狩りに\n／佐藤翔「この町はリバー」\n「スタジオマリオ」でも「カメラのキタムラ」でもこの歌は駄目なわけで、歌のなかで固有名詞が効いている、チョイスがうまい（いわゆる「語が動かない」）というより、むしろこの歌に相応しい固有名詞がこの世にあってよかった、と感じる。「アリスに狩りに」の韻律もいい。\nしんじゃえーる、　わたし、いがいを、　よぶ　の、なら　？　きみに、あげるの、しんじゃえーるを3\n／藤井茉理「黄色憐歌」\n最初は「死んじゃえる」に「ジンジャーエール」を掛けた単なる言葉遊びだと思ったが、結句に至るとそれは「あげる」ことが可能なものとなっており、それはただの「死んじゃえる」ではありえない。「ジンジャーエール」の物質的性質と「死んじゃえる」の双方を持つ謎のものがそこに存在している。「しんじゃえーる」、もらいたくない。\nVideo Assistant Referee、いわゆるビデオ判定\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nなぜこの記事が医療ニュースのサイトに掲載されているのか謎\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n改行の関係上、誌面からは「あげるの、」後の字空けの有無が判別できない\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年12月15日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/12/15/175705/","section":"ブログ","summary":"","title":"『Q短歌会機関紙』第二号","type":"posts"},{"content":"　第二十九回文学フリマ東京で入手。1996年生まれによる短歌同人誌。1\n連作11本2（ゲスト一人を含む）と一首評4本に加え、平岡直子による前号評が掲載されている。\nエスカレーターから降り立つひとりひとりをよく見る　正解はひとつだけ\n正しいことを言う人に質問をすると何時でも正しいことを言ってくれる\n／乾遥香「永遠考」\n一首目、「正解」とは常識的には待人のことで、自分にとっての正解なのだろうけれど、こう書かれると普遍的に「正解」であるただひとり（ひとつ）の人間がいるように見える。そして「正解」があるということは、それ以外はみな「不正解」であるわけで、恐ろしい。\n二首目、「何時でも正しいことを言」う人なんているわけない（と私は思う）し、トートロジーめいた書き方からしてもアイロニーがあると受け止めるのがオーソドックスな読みかと思うが、あるいは本気で言っているのでは、という不安を抱かされるのは、「言ってくれる」の字足らずによる気がする。もちろんアイロニーと本気は二分できるものではないし、割合の問題なのかもしれないが。\n連作としても好きでした。タイトルも格好良いし。\nゲーセンの前にふたりは落ちあつて雪降るしづけさから騒音へ\n／岐阜亮司「過去について」\n「騒音」という音声的な、それもごく短い描写だけで、外部と大きく異なるゲームセンターの空間を総体として喚起する手腕が見事。落ち合う場所の設定や、そこから歌のなかでの移動する距離・時間の小ささも好ましい。\n知らない人の噂話を聞かされて毎ターン500のスリップダメージ\n／篠田葉子「呼吸器疾患」\n上句の現世にありがちな場面に突如ターン制が導入される驚き。作意はもしかすると「スリップダメージ」のほうにあるのかもしれないけれど、仮にそちらの情報が先に提示されていたらあまり面白くなかったし、語順で成功している歌だと思う。毎ターン500ってどれくらいなのかな。そもそも人生というゲームでは最大HPはどれくらいが目安なのだろう。\n遠いけどまぶしくはないものとして喫煙室の火の貸し借りを\n／佐々木遥「途方のない人生」\n遠いものはたいていまぶしい、という裏にある認識の提示が眼目の歌と読んだ。「遠い」ものという印象を持ちつつ、しかし下句の状況を目視できる距離はそれなりに具体的にイメージでき、それは提示した認識に対して「ちょうどいい」距離だと思う。「遠い」と明記されているものに対して言うのも変だけれど。\n友達の頼むメニューを決めてやる毎日同じ服の私が\n友達が音読をするときの語気　飛べているのが謎のはばたき\n／大村咲希「学生短歌会合同合宿二〇一九夏」\n一首目、謎の卑屈さに笑うけれど、そんな私にメニューを決められる友達まで卑下に巻き込まれているようでもある。\n二首目、「語気」＝「はばたき」と読んだけれど、下句の喩にパワーがありすぎる。\n連作のほかに、テーマ詠：「黄」がある。\n「テーマ詠」というのも考えてみれば珍妙な言葉だけれど、短歌業界一般的には「詠み込みが義務でない題詠」という意味で使われていると思う。とはいえ禁止されていない限り（聞いたことがない）、普通？　に詠み込まれることも多いだろうし、ここに掲載されている歌にもそういった例はあるけれど、そうでない歌がなんだかすごい。\nユーチューバーの解散を照らす月　海まで百十五キロ／大村咲希\nひよこっこっこ～きみもげんきでやっとくれわたしは変な歌を歌うよ／初谷むい\n詞書：ポムポムプリン\n囚われの犬をあなたは見つめつつわたしの１００円も使い切る／乾遥香\nユーチューバーと「黄」にどういう関係があるのかとしばらく考え込んでしまったが、ひょっとして月＝黄色、ということだろうか。\nいや確かに月もひよこも黄色いけどさ、そんなのありかよ、三首目なんてもう「黄」要素が詞書にしかないじゃん……と突っ込みたくなったが、考えてみれば詠み込み義務の題詠の場合は題を詠み込んでさえいれば何でもありで、むしろ題の第一印象からどれほどかけ離れたものにするかに血道を上げるようなひねくれ者すらいる（私とか）。だとすると、「テーマ詠」は「題詠」の単に縛りがゆるくなったものだと自分は思っている、と思っていたのは違ったのかもしれない。\n@nubatama_96より\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n連作を数える単位がわからない\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年12月10日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/12/10/014932/","section":"ブログ","summary":"","title":"『ぬばたま』第四号","type":"posts"},{"content":"覇王と革命 （単行本）\n茂宸、何をやっているんだ。あなたは私の先生だ。私より年長だ。私は何もかもあなたに教わった。私はあなたの後輩だ。しかし、忘れたのか。今は事情が違う。私はあなたの上官であり、あなたは私の部下だ。今ここにはわれわれ二人しかいない。私はあなたに会うために来た。何も持っていない。だが、あなたの手には銃がある。あなたがこんなことをやりたかったら、軍を連れて行こうというなら、まず私を撃ち殺さなくてはならない。もし私を殺したくないなら、私はあなたの上官だ。あなたは動けない。私はあなたに命令することになる。あなたには二つの選択肢がある。私を殺すか、私の命令を聞くかだ。自分で選んでほしい。\n郭松齢は泣いた。こんなことを言ったようだ、私は恥ずかしい。私は山海関を突破できなかった。今は人にくっついて、人の手伝いをしている。つらい。あなたの顔にも泥を塗った。\n私は言った。そんなことを言わないで欲しい。私のどの顔をつぶしたというのだ。\n郭松齢はただ死を求めるのみと言う。私は、そんなことを言うなと言った。\n彼は泣く。なぜそんなに涙を流すのだ。\nもう人の手伝いなどしたくない。死を求めるのみだ。自分で死にたい。私は言った。ではいいだろう。もう死を決意しているというなら、それはいい。あなたは私の顔をつぶした、山海関を突破できなかった、もはや死を決意しているという。それなら戦場に行って死ぬことだ。そこで全力で戦えば、私の顔を立てるということにならないか。あなたもよい死を得るのではないか。死ぬのなら、戦場で死んだらどうだろう。\n彼はうなずいて、好 (ハオ) ！　と言った。\n中国の軍閥時代についての本。副題にある1915-28は、著者の説明を引けば 「国家の統合が壊れた袁世凱統治期の末から、蒋介石が全中国を統一するまでの軍閥混戦の時代」 であり、また 「日本が中国に二十一か条の要求を突きつけた」 年から 「奉天で張作霖が爆殺された」 年まででもある。学校の世界史に代表される日本で一般に紹介されている歴史では、この期間の中国は国共合作に北伐、そして上海クーデターといった、その後の国民党と共産党のための前史、というような扱いで、軍閥関係者で知られているのは袁世凱・張作霖のほかはせいぜい段祺瑞、という程度だと思う1。しかし本書を読む限り、同時代の政治・軍事に対して直接的な影響力を持っていたのは明らかに軍閥のほうであり、しかも相当に激動の時代だ。国民党が広東、広西を統一し大軍閥と戦える力を持つのはようやく1926年になってからであり、その間には軍閥間の大きな戦いが何度も起こっている。また「革命の父」こと孫文や共産党にはかなり辛辣だし（孫文に対してはエクスキューズはあるが）、ボロクソに言われているイメージしかなかった陳炯明には好意的な記述が多い。\nそういった歴史が日本で知られていないのは、中国から輸出された革命史観に基づいているから、という著者の意見はもちろん正しいだろう。一方で、激動の時代だからそれが教科書的な概説史で重視されるかというと、中国だけを例としても三国時代、五胡十六国、五代十国……とむしろ真逆だ。通史的な歴史記述はもっぱら進歩史観を内包しており、激動の時代はそれゆえに社会制度の整備がない＝前時代と変化が少ない、進歩がないとして軽視される、という面もある気がする。\n参照元の中国語文献はタイトルを見る限り人物伝・評伝に類するものが多そうで、実際にこの本もそういった有力者の行動を中心にした歴史記述となっている。属人的な、いわゆる英雄史観の類は、現代では冷たく見られがちだけれど、しかし読みものとして抜群に面白かった。二段組みで本文だけでも380頁近い大部だが、まったく飽きることなく一気に読めた。\n豊富なエピソードを通じて、登場する軍人たちの人物像が魅力的に描かれている、将としての器や、部下としての見込んだ相手への忠誠心、勢力間や列強（もっぱら日本）との外交能力に、中国らしく諸葛亮にも喩えられる戦場での知謀、あるいは脱出する敗者を見逃したり、政敵への暗殺を忌避（例外はいる）したりといった彼らなりの倫理感（いわゆる「侠気」なのだろうか）……。学術論文的形式ではないながらも注は細かく付されているとはいえ、特に人物についての記述は元文献がどこまで信憑性のあるものなのかやや怪しい気もするが2。\n特に袁世凱と徐世昌、段祺瑞と徐樹錚、曹錕と呉佩孚、張学良と郭松齢あたりのエピソードには、利害関係だけではない絆3が感じられるし、著者も力を入れて書いているように思われる。冒頭で引いたのは、張作霖の長男である張学良と、彼の士官学校時代の師であり、最も信頼された部下だった郭松齢の、おそらく軍閥間での最大の戦いである第二次直隷・奉天戦争中の会話。のちに郭が張作霖に反旗を翻し、敗れて処刑される際、郭が遺書を宛てたのは学良に対してであり、学良は（明らかに無理なのに）郭をなんとか助命しようとしていたという。この部分は晩年の張学良による口述の引用であり、つまりブログに引くのは孫引きにあたり、本来よろしくないのだけれど、しかしこの場面を本書中もっとも印象的なものと感じる人は多いのではないだろうか。これこそ本当に二人しかいない場面だろうし（副官／護衛なんかがいたら茶番にすぎる）、張学良の言うことが歴史的事実である根拠なんて一切ないけれど、89歳の張学良が語ることを欲望したのがこの話である、と考えるとそれ自体エモーショナルに思える。\nとはいえ個人的な嗜好としては、大多数の権力を持たない人間たち個々についてはその生死さえ顧慮しない立場にある人間同士の個人的な関係について萌える気にはあまりならない。彼らを人格的にどう評価するかというよりも、権力者たりえない私のポジショントークだが。\n著者のブログも面白い。電子版では改訂が入っているそうなので、今から読む人はそちらのほうが良いかもしれない（「張作霖の盟友」呉俊陞という記述に、他の箇所を見る限りそこまでの関係なのか……？　と思っていたが、電子版では削除されたらしい）。\n予備校時代の教材を引っ張りだしてきたところ、講師オリジナルのテキストには3人に加え馮国璋・曹錕・呉佩孚の名前が記されていた。ほとんど世界史と国語で大学に入ったようなものの私だがさっぱり記憶にない\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nごく限られた人間しかいないはずの場での様子が書かれすぎていて（「誰々は声をあげて泣いた」みたいな）、事実なら情報管理が甘すぎるだろう、と思う\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nという表現は嫌いで、それはまさにこういうことに使われがちだからなのだが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年9月25日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/09/25/200115/","section":"ブログ","summary":"","title":"杉山祐之『覇王と革命　中国軍閥史一九一五―二八』","type":"posts"},{"content":"","date":"2019年9月25日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E6%AD%B4%E5%8F%B2/","section":"Tags","summary":"","title":"歴史","type":"tags"},{"content":"\u0026ldquo;date\u0026rdquo;:\u0026ldquo;2019-09-03\u0026rdquo;,\u0026ldquo;categories\u0026rdquo;:[\u0026ldquo;短歌\u0026rdquo;]} 短歌は青松輝を飽きさせてはならない｜私たちの恥じらい｜note\n「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」の補足｜私たちの恥じらい｜note\n「ブログに還れ」を提唱する1私は、他者が自分の語りたいものについてまとまったかたちで語ってほしいと思っているので、こういう記事が読めると嬉しくなる。\n本来はまず元の評論についてちゃんと言及すべきなのだろうけれど、ここでは元評論へのTwitterでの反応に対して書かれた（と思われる）補足に興味深いトピックがいくつかあったので、こちらを中心に書くことをお許しいただきたい。\n## 実績と評価・報酬 「実績」や「評価・報酬」が何を指しているのか最初わかりづらかったけれど、後の文脈から考えると、実績＝優れた成果（ここでは短歌作品・評論）、評価・報酬＝その成果に対する反応・言及、ということだろうか。**「『短歌をやめないでほしい』と伝えてしまうことの暴力性」を自覚した上で、それでも「これからも面白い文章・作品を読みたい」からやめないでほしい、と欲望してしまう作者に出会うことで葛藤が起こるのはとてもよくわかるし、その結果として元評論のような文章が書かれるというのも納得がいく。「勝手に『短歌』を共犯者にしてしまった」という点は、私としては特段問題があるとは思わなかった。そもそも青松さんが短歌をやめたら「短歌にとって思ったよりも凄い損失になってしまう」**と本気で思っているからああいう文章を書いたのでしょう？　「短歌」を共犯者にすることと、「短歌」のために罪を犯すことは違うし、この評論をどちらかに分類するなら後者だと思う。 「評価」→「報酬」という比喩には直感的に反感を抱いた。その理由を言語化するなら、評価を量的なものとして捉えている感触や、あるいは自分が報酬だと思える評価（反応・言及）しか評価と認めないのでは？　という疑念を抱いたから、というあたりか。一方で、冒頭で述べたように私はブログやnoteで書かれる短歌についてのまとまった文章が好きで、そういったものを読んだらなるべく反応するように心がけている[^2。そこには書いてくれたことへの感謝と、次も書いてもらうためのモチベーションになればという下心があるが、そういった意識の総合として「報酬」を与えている2、という喩はしっくりきた。\nまた、これは引用する水沼朔太郎さんのツイートで言われていることのほぼ焼き直しだけれど、岐阜さんの論はある読者が作者に対する評価を、している／していないの二元論的に捉えすぎなのではないか？　と思う。\n個人的には青松さんは適切なかたちで評価されてると思うけどな。ただ、この適切な、というのはもちろん含みがあってたとえばだけど部分的にはおもしろくても手放しで称賛はできないから言及まではしない、みたいな人々やまだ興味を持ち始めて様子見（というのも変な言い方だけど）の人々もいるのでは\u0026mdash; 水沼朔太郎 (@smizunuman) [2019年8月31日と書いた以上はわたしの青松さんへの評価（？）も書いておくべきかと思うのだけど、おもしろいかおもしろくないかでいえばとくにきちんと書いた歌論はおもしろい。その一方で価値観の違いから好ましいとは思わない言説も散見されるし、たとえば新人賞や評論賞の応募原稿は読ませてもらったけれど\u0026mdash; 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日賞に値する原稿だとは思わなかった。けれど、だからといって青松さんに興味をなくすなんてことはない。ブログやネプリはかかさず読むし新人賞や評論賞を受賞することがあればうれしい。でも現状大絶賛はできないです。岐阜さんに答えるならここまで書かないといけないかなとなったので思うことを書いた\u0026mdash; 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日あと思うのは潜在的な支持層や反対に潜在的な反対層になんらかの表明を求めたい気持ちはとてもよくわかる（岐阜さんの文章では支持層のみだけど）し自分の話をする恥ずかしさを承知で言えばわたし自身も直接そこまで言ってくれるならもっと公的な場で支持を表明してほしいと悔しい思いを何度かしている\u0026mdash; 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日のだけど、さっきの話にもつながるようにおもしろいにも様々なニュアンスやグラデーションがあると思うんですよね。だし、人によって表明の仕方に違いや温度差もある。当たり前だけど、声のでかい人の思いが一番熱いわけでもない。だからこそ、声を出してほしいということなのかもしれないけれど\u0026mdash; 水沼朔太郎 (@smizunuman) 2019年8月31日](https://twitter.com/smizunuman/status/1167886779208200192?ref_src=twsrc%5Etfw) 自分のやめてほしくない人間はもしかしたらやめてしまうかもしれない、という恐れがあり、かつそれを防ぐために他者の評価が役に立つ可能性が少しでもあると思うとき、もっと評価＝反応・言及が増えることを望む、そのために隗より始める、というのは誠実なやり方だと思う。\nしかし**「（筆者註：青松を）評価している人間が潜在的にはいる」という前提に立っても、それこそ岐阜さんのようにすごく評価している読者もいれば、ある程度評価している、面白いと思っているが、仮に青松さんが短歌をやめてしまってもどうしようもなく悲しくはないし短歌（界）にとって決定的な損失だとも思わない読者もいるだろう。そしてたぶんほとんどの読者にとっては、前者のカテゴリーに入る作者よりも後者に入るそれのほうがずっと多い。ある作者が「ある程度評価している」多くの作者のうちの一人でしかない読者に、他人が評価の表明、報酬を与えることを求めるのはまあ無理筋だし、それをしないのは怠慢だ、そのせいであの人が短歌をやめてしまうかもしれない、などと言われても、それならやめてもらって結構、嫌な言い方をすれば、報酬を与えられなければやめてしまうようなやつはやめちまえ、と返されるだけなのではないか。岐阜さん自身が言う「短歌をやめたいひとはやめた方がいい」**というのはまったく正論なのだから。\n個人的には「若手」＝歌歴のあまり長くない人に対する、特に作家論的な評価には抵抗を感じる部分もある。まだ自分のスタイルを確立していない作者が、ともすればその評価を内面化してしまい、結果として可能性を狭めてしまうことを恐れるからだ。どれほど自覚的にかはさておき、評価されたように書こうとする、自己模倣に陥る、など。それは作者を馬鹿にしすぎている、というのはもっともだ。しかし一方で「若手」はまさに「報酬」を与えられることが少ないので、数少ないそれを必要以上にありがたがってしまう、ということは有り得ないとは言えないのではないかと思う。少なくとも私にはその経験がある。\n作風や短歌（文学）観のようなものは一応程度に固まったと言えるまででもそれなりに時間がかかるはずで（そもそも完全に固定されるなんてことになったらもうそこで終わりでしょう）、あまり早いうちから個々の作品を超えて「作者」について過剰に語るのはよくないよなあ、と思う\u0026mdash; さく (@saku_cakey) [2017年5月10日作者として語りたくなる気持ちもわかるし（私もするし）、語られたひともそれはそれとして受け止めても反発してもスルーしてもよいけれど、ともかく自分（の作風）についての言説に自分（の作風）を寄せていく、なんてことだけは決してせずにお互いがんばっていきましょう、というありきたりな話\u0026mdash; さく (@saku_cakey) 2017年5月10日](https://twitter.com/saku_cakey/status/862309056442114049?ref_src=twsrc%5Etfw) 昔ツイートしてた。\n## 権力について 一般論として、事実権力関係が存在する状況で[^4]、「すべては平等である（べき）」という論を強調することは、結果として権力関係の隠蔽、保全につながる。そして例示をそのまま引けば、「次席」と「歌集」を持つものが、その両者とも持たない人よりも相対的に強い権力を有する場合は、そうでない場合よりも多いだろう。一方で、歌壇[^5]全体のなかでの権力、立ち位置がどれほどか、というのはまた別の問題でもある。 これはややもすればより権力のある人間によるマンスプレイニング的3行為、卑俗な言い方をすれば「老害」的振舞いと取られるかもしれないけれど、学生短歌会の現役世代の人と話していると、すぐ上の世代（24-30歳くらい？）の、特に学生短歌会出身の歌人の権力・影響力・認知度を過大評価しすぎでは？　と思うことがある。新しく登場した・しつつある歌人について、おそらくは歌壇の大方よりも敏感だと思われるあなた（たち）は、昨年の新人賞や第一歌集をいくつ覚えていますか？　新人賞や歌集という極めて分かりやすい「実績」を挙げた後に注目される作者は、結局のところその前から注目されていた人だけである、という世知辛い状況があると思っているので、賞や歌集を**「『歌壇』に発掘されている」**ことの根拠にするのは、やや雑な物言いかなと感じた。\nついでに評価・報酬に絡めた話をすると、私がこの3年以内に発表した短歌作品・評論のうち、Twitter上で片手の指を超える言及を観測できた4のは、『歴史について]』（それも機関誌への初出時とブログ公開時を合わせて）だけだった。賞や歌集の実績があるわけでもない私は文脈から外れるけれど（別に皮肉ではない）、まあもしかしたら多少は有名に見えるかもしれない私でも、得ている「報酬」はこの程度ですよ、という例として。自分に対する評価なんてものは公開されないのが普通だと思っておいたほうがいい、なんていうふうに態度にまで口を出すと、ますます鬱陶しい先輩になってしまいますが。\n## 青松輝の作品について 短歌、これくらいでいいですか？こっちも忙しいんで……\nおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃおりゃって生きてたらはちゃめちゃに光ってる夏の海\n青松輝「フィクサー」『第三滑走路』7号\n元評論の冒頭に引かれているこの歌について以下のツイートをして、青松さんからリプライをいただいた。https://t.co/pZglvMKvXN言い忘れていたけれど記事で引用されている「短歌、これくらいでいいですか？こっちも忙しいんで……」という詞書がついている歌については「いやいいわけないしそんなこと言うならやらなきゃいいのに」と思いました（作者ではなく作品への評価ですが）— さく (@saku_cakey) 2019年8月31日孫引きだし連作？　全体を読めていないので私の知らない趣向があるのかもしれないが— さく (@saku_cakey) 2019年8月31日わざわざこんなこと作者が言うのもバカらしいですけど、この詞書自体は最後の歌についていて、ネットプリントで短歌を書いてるくせに「短歌、これくらいでいいですか？」とか言って締めてくるおふざけ、みたいなニュアンスのつもりで書いてるしそう読めると思います。— ベテラン中学生 (@_vetechu) 2019年8月31日この記事だと僕が自分のことを有能だと思ってて調子に乗って短歌をナメてるから「このくらいでも良いですか」と言ってる、と読めるかもですが、意図としてはツッコミ待ちのおふざけというか。それでもなお「言わなくて良くない？」と思われる人はいてもいいですが、変に受け取られたくないので一応。— ベテラン中学生 (@_vetechu) 2019年9月1日\nこの歌を読んで、まさに「ツッコミ待ちの歌」だと思い、それならキツいポーズの言葉でツッコんでもいいだろう、と最初のツイートをした。\nその上で言えば、私はツッコミ待ち、おふざけとしても面白いと思わず、イラっときた、というのは正直なところある。詞書は字義通りに受け取ればやっぱりナメているし、歌と合わせて読んでも、ナメてるというポーズ＝ツッコミ待ちの作り方としてもいい加減すぎる、ナメていると思った。この歌が連作にあるという情報や、「ネットプリントで短歌を書いてるくせに」という作意を知っても、今のところその評価は変わらない。良くない歌にしかつけられない、何かの間違いで良い歌についていたとしてもそれを良くないものとして読ませる詞書に何の価値があるのだろうかと思う。\n一方で、歌壇における権力を一旦置いておいても、学生短歌界隈の現役学生とOBという点を考えると5、青松さんの作品に対する私の発言が抑圧的な力を持つ可能性はある。批判的な意見を述べるのであれば、感情に任せた雑なかたちですべきではなかったと反省している。\n青松さんの作品はあまり読んだことがないし、今のところ強い印象は持っていない。批評家、「ブログに還れ」を実践している一人としての青松さんに対しては、「短歌（界）にとって決定的な損失」だとまでは思わないにしても、言及する＝報酬を与えたくなるレベルのものを書く人だと思っている。【歌論】佐久間慧と「人称派」 - ベテラン中学生\n奇しくも私が「やめないでほしい」と願う歌人の一人である佐久間慧を中心とした評論。特に最近の佐クマ6についての評は、簡潔ながらもとても鋭いと思う。\n論の本筋とは少しずれるけれど、私に一番刺さったのは以下の部分。\nで、佐久間慧は確実に永井祐の一歩先を行けてるな、と感じて、そこが「なんたる星」のはだしさんと並んで二人を僕がすごく推している要因になってる。自分としても、作るとき、読むときにつねに永井祐の影をいろんなところに発見してしまうからこそ、永井祐以降、までいけてると感動しちゃうというか。\n「永井祐の影をいろんなところに発見してしまう」人は割といるのではないかと思う。しかしそのことが評論として、しかも「永井祐の一歩先を行けてる」歌について論じるもののなかで語られたのは、パンドラの箱を開けられた感がすごかった。\nいまブログを読み返したら、最新記事に「8月中に短歌関係の記事も上げようと思ってる」と書いてあったので期待しています。\n作品についても言及しようと思って「第三滑走路」の8号を刷ってきたけれど、それはまた後日。\nこの記事はnoteだけれど、要はTwitterよりも主張を展開するのに向いていて、かつ検索にヒットする媒体ならなんでもよい\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n率直に言えばこの文章についてもそうなれば、という思いはある。こんなもん押し付けられても困るわ、と言われそうだが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nマンスプレイニング - Wikipedia 、これ自体造語なのだから筋の悪い持ち出し方だが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nいま検索したので、消えたり非公開になったりしているツイートもあるかもしれない。私の検索術は信頼してほしい\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n青松さんと私は同時期に在籍していたわけではないし、個人的な接点はないが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n名義が変わっている\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年9月3日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/09/03/040616/","section":"ブログ","summary":"","title":"岐阜亮司「短歌は青松輝を飽きさせてはならない」をめぐって","type":"posts"},{"content":"この薬が効けば鹿鳴館になる\n負けたって思ったさきの峠道\nジョニデとはジョニーデップのことだろう\n生ハムメロン販売員と過ごした夏\nかわいくて才能のある密造酒\nめるかり、と喚んだでしょ？　だから来てあげた\n負け方が悪いね芋煮会しよう\n急行に乗った時点であきらめた\n衛生面に定評のある牛丼屋\n天皇もジョニーデップも食べた味\nアカウントいくつ持ってるんだそこに座れ\n人生を最悪にする焼き豆腐\n長いトンネルを抜けると皇居だった\nレイトショーまでに終わらせてあげるよ\n逃げ水の逃げる気持ちもわかるけど\n作品をつくることよりもつくった作品を評価することのほうがはるかに難しい、というのは過去に短歌で経験したことで、そのときは最低限自分なりの評価基準が定まるまでに二年近くかかったから、川柳を真面目にやってみようと思い立って一週間ではそんなものはあるはずもない。評価基準が定まる前に発表した短歌のほとんどはいまの私にとっては見るに堪えないものだから、この川柳たちもおそらくはそうなるだろう。しかし短歌とははっきり別物としてやる以上、発表／創作のスタイルも短歌とは別にしたいので、当面はこうやって作った句を月ごとに公開していく方針でやってみたい。\n","date":"2019年8月31日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/08/31/095543/","section":"ブログ","summary":"","title":"めるかり、と喚んだでしょ？　だから来てあげた／2019年8月以前の川柳","type":"posts"},{"content":"","date":"2019年8月31日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E5%B7%9D%E6%9F%B3/","section":"Tags","summary":"","title":"川柳","type":"tags"},{"content":"アルバイト先を出てJRの最寄り駅まで歩く。駅の近くのラーメン屋で朝食。往々にして特別美味しいわけでもないくせに横浜に比べて高いので東京で家系を食べることはほぼないけれど、ここの店は朝ならサービス料金の500円で、味も悪くないから気に入っている。\nお金を使わず時間をつぶす方法はいろいろあるけれど、屋外で過ごすものはこの時期なるべく避けたくて、かつそれなりに長い時間をつぶしたい、となると最有力手段のひとつは大回り乗車だと思う。ついでに乗りつぶしができればなおいい。品川で横須賀線／総武快速線に乗り換えると、ここから錦糸町まで1は（少なくとも物心がついてからは）未乗区間だ。こんなに近くに乗ったことのない区間があったことも不思議。新橋駅の手前で列車が地下に入っていくと、いつもと違う展開にささやかな高揚感を覚える。緩行線に乗り継ぎ、西船橋で武蔵野線に乗り換え。南浦和までが2つ目の未乗区間。緑を基調に家々が散りばめられた郊外にありがちな車窓は、とても楽しく感じられることもあれば、ひどくつまらないときもある。南浦和で京浜東北線に乗り換えて南下。\n鶯谷で下車し、「ひだまりの泉 萩の湯」へ。この銭湯の噂は前々から聞いていたけれど、先日秋葉原での駒形友梨さんのリリースイベントの後に訪れた2系列？　の寿湯（上野）が良かったので、いよいよ行ってみる気になった。ビルの１階から4階までが銭湯、という説明から無限に広大な空間をイメージしていたが、そこまでではなく、湯船の種類はむしろ寿湯のほうが多いくらい。よく考えたら何フロアあろうと男湯／女湯はそれぞれ1フロアが限度だろうし、別にビルが巨大だなどとは一言も言っていないのだから当たり前なのだけれど。それでも十分に広々とした空間で、種類が多くない分一つ一つの浴槽が大きく作られている。サウナと水風呂がすぐ隣にあるのも入りやすく、噂に違わぬ良い銭湯だと思った。\n銭湯に入っている間に私に起きた変化が2つあり、1つはサウナで流れていたテレビで「水卜麻美」さんというアナウンサーの名前の読みが「みうらあさみ」だという知識を得たこと。ずっと「みとまみ」だと思っていた……。言われてみれば確かに「うら」と読めるし、カタカナだと思うよりそちらのほうがよほど自然だが。もう1つは川柳を真面目にやってみる気になったことだが、それを思い立ったのは「下町のしっとりとしたカレーパン」と書かれたポスターを見ているとき。５・７・５だからといってそれを川柳だと思っているわけではないし、自分の脳の動きがよく分からない。\nサウナと水風呂を行き来したり、ぬるめの炭酸風呂にだらだらと浸かっていたり、なんだかんだで3時間近く過ごしてしまった。自宅の風呂で異常な長風呂をする習性は抜けたけれど、外の温浴施設に来るとやっぱり長居してしまう。\nようやく萩の湯を出て、徒歩で北上。地元の祭りの行列と行き当たるなどしながら、本日の歌会の会場、屋上にたどり着く。今年初めての歌会は2週間と少し前だったのに、気づけばもう4回目だ。しかしこれまでの3回はいずれも身内3とばかりだったのに対して、今日は司会の山階基さん以外は初対面だった。多少はよそいきでやらなきゃな、という歌会は2年ぶりくらい。\n歌会は楽しかった。私の歌には1票も入らなかったけれど。0票だと昔はけっこう気にしていた記憶があるけれど、いつからそうでなくなったのだろう。山階基『風にあたる』も著者から買えたし。空間の雰囲気も好ましくて、また訪れたい。\n電車のなかで山階さんと歌集や連作の話をしていると、こういう話をするのも久々だよね、昔はいつもしていたのに、と言われる。2人とも学生でなくなってからもなんだかんだ会う機会はあるけれど、考えてみれば短歌そのものの話はした記憶は確かにない。もっと短歌そのものの話をしていきたい。\n山階さんは私にとっては（タメ口で話しまくっているとはいえ）やっぱり先輩なのだけれど、歌歴は2年、実年齢で言えば1つしか変わらないわけで、ひょっとすると自分が歌集というものを出すこともあるのだろうか、などと考えないこともない。まあ当面はそれどころではないし、渋谷のゆうゆう窓口から出した奨学金の返還猶予届も、もろもろの理由のうちの一つを明らかにしているけれど。家に向かう電車で赤羽尭『復讐、そして栄光』を読了。\n東京―品川間は系統上は東海道線と同じだが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n自宅と方向が真逆である\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n早稲田短歌会にお邪魔したときはさすがにもう知らない人も多かったが、まあ元会員でもあるし部外者という気はしない\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年8月25日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/08/25/225829/","section":"ブログ","summary":"","title":"2019年8月25日の日記","type":"posts"},{"content":"　夢に出てきた2人の非実在オタクが「黒木ほの香と前川涼子の“まだまだこれからなんです1」の素晴らしさを語り合っていたと思ったら、突如3年以上前にロシアで観たサッカーの観戦記を書けと脅してきて本当に怖かったので書く。日本語で書かれるスタディオン・ペトロフスキーの観戦記はたぶんこれが最後だろうし、声優ラジオの話題（なのかすら怪しい）から始まるものは空前絶後だと思う。\n試合まで # ロシアに一か月ほど短期留学することになって、初の日本国外でのサッカー観戦をすることに決めた。留学先がサンクトペテルブルクであることを考えれば、観る試合は同地で唯一のプレミア所属クラブ、ゼニトのホームゲームになるだろう2。代理店などを通せば日本からチケットを買う手段もあることにはあるようだったが、手数料がかかるのも馬鹿らしいので行けばなんとかなるだろ精神で旅立つ。現地に着いてから留学中にUCL（ラウンド16、vsベンフィカ）もあることに気付いたが、既にチケットは完売していた。さすがはCLといったところか。\n改めてウィンターブレイク明けのホーム初戦、3月13日のルビン・カザン戦に狙いを定める。ルビン・カザンは2000年代後半にはプレミア連覇の経験もあり、UCLでも悪名高い？　6バックでバルセロナを苦しめたことで名を馳せたそうだが、この頃は既に国内でも中堅程度の立ち位置になっていて、まあ勝ち試合を観られるんじゃないかという下衆な期待もあった。\nゼニトのオフィシャルショップ「ゼニト・アリーナ3」はサンクトペテルブルクのメインストリート、私が勝手にペテルの四条通と呼んでいたネフスキー通りに面している。カザン聖堂や、私が今まで見た建築のうち最も美しいと思った血の上の救世主教会にもほど近い店は、新しくてきれいだった。グッズのラインナップはJリーグと大きくは変わらない。違いはJリーグでは定番のタオルマフラーがない一方、ニットマフラーやジャケットなど防寒具の類が充実していたこと。マフラーには過去のUCLなどのビッグマッチに際して作られたと思われる、対戦する両クラブの要素が半々に入ったものも多かったが、大幅に値下げされているわけでもないそれをいまさら買う人が果たしているのかは不明。\n店内にはクラブの栄光の歴史を讃えるゾーンもあり、なかでも一番誇らしいものは2007-08シーズンのUEFAカップ優勝のようだった。\nゼニト・アリーナは時間がある日は毎日のように通っていたエルミタージュ美術館（国際学生証を見せると無料で入れる）から宿までの道のりにあったので何度となく立ち寄っていたが、ネイティブの幼稚園児レベルのロシア語力で電子機器を操作してチケットを発券するのに怖気づき、なかなか踏み切れなかった。機械はこちらの意図を推測してはくれないし、ボディランゲージも通じないから。かといって目の前に専用の機械があるものを人間から買うのもどうにも気が引ける。試合が迫ってきたのでようやく腹を括って買おうとしたが、紙幣が呑み込まれたまま戻ってこないというまさかの事態に。店員を呼ぶとどうも偽札が交じっていたらしく、街中の適当な両替所を使ったのが悪かったのだろうか。ともあれ呑まれた額は大したものではなかったし、試合のない日にスタジアム脇のクラブ事務所に行けば返してくれるとのことだった。\n当日 # スタディオン・ペトロフスキーはメトロのスポルチーヴナヤ駅（そのまま「スポーツの」という意味）を出て少し歩いたところにあり、近づくとそれを環状に取り囲む警備員に行く手を阻まれる。セキュリティチェックを終え、環を抜けて進んでいくと一回り小さい環があり、またセキュリティチェック。チケットを切るときも、スタンドへのゲートでもセキュリティチェック。いちいちホールドアップさせられ全身を触られ、荷物の中身を全てぶちまけられる横を、おざなりなチェックで解放されるロシア人たち（男性ばかりだ）が追い越していく。人種差別だろ、と思うが、中国系と思しき男女が私よりは明らかに軽いチェックで通されていたのを見ると、表面が傷だらけでところどころ羽毛がはみ出しているダウンジャケットに、穴が開いている（のは一目では分からないと思うが、ボロボロなのは明らか）ボトムスという格好も悪かったのかもしれない。まあ単に若い一人者という属性が警戒されていたのかもしれないが。\nコンコースは建築物の中にはなく、外周の屋外からゲートを通ってそのまま入るスタイル（三ッ沢みたいな感じ）だったと記憶している。プレハブのようなトイレにも風が吹き込んでくる。収容人員は20985人。一層式のスタンドは、観やすいわけではないが日産ほどピッチから遠いわけでもない。なんというか、実に「旧共産圏の陸上競技場」という感じ。\nゼニトのウルトラス。向かって左下の見切れている横断幕は「НАШЕ ИМЯ ЗЕНИТ」で、スローガンの類として扱われているよう。「俺たちの名はゼニト」くらいの訳でよいだろうか。反対側のゴール裏もほとんどはゼニトサポーターで、大仰なフェンスに囲まれたゾーンにいるはずのルビン・カザンサポーターは探すのに難儀するほど少なかった。日曜のナイトマッチで、サンクトペテルブルクからカザンは直線距離で1200km以上（日本だと仙台―鹿児島よりも少し遠いくらい）離れているのだから無理もない。\nバック／メインスタンドはそれなりには埋まっていたが、しかし席を探すのに苦労するほどではない。リーグ公式の試合記録だと観客は16797人となっているけれど、収容人員の約80％が埋まっていたとは写真を観ても当時の体感からしてもちょっと信じられない……。いずれにせよ、ロシア有数のビッグクラブのホームゲームとしてはやや寂しい印象を受けた。\n日本ではありえないほど早めに座席に着いたが、それが仇になったかキックオフ前に身体の異常に気付く。震えが止まらない理由は容易に推測出来て、単純に寒すぎるのだ。上の写真がいかにも適当に撮られているのも多分そのせい。\nサンクトペテルブルクは緯度こそ高いものの、決して極寒というわけでもない。冬季の平均気温は旭川よりも高いくらいで、昼間はあちこちを散歩して回っていた。しかし夜に風を遮るものもない場所で動かずにいる、というシチュエーションでの体感温度は段違いに低く、どんどんと体力を奪われていたらしい。\nこのままでは凍死しかねない、というのは大袈裟にしてもそれくらいの苦痛のなかで、旧国立競技場では自動販売機のカップラーメンが暖房と言われていた、というジョークを思い出し、なにか温かい食べ物で暖を取ることにする。コンコースには特別凝ってはいない、まあいかにもスタジアムにで売っていそうな食事がそれなりに売られていた。一番安くて暖房になりそうなオニオンスープを買ってスタンドに戻ろうとすると、またホールドアップを要求される。オニオンスープを自分の頭にぶちまけるのは勘弁したいのでホールドアップする間これを持っていてくれと頼むと、苦笑いしながらそのまま通してくれる。ありがたいのだがセキュリティ的にはそれでいいのか。\nゼニトのスタメンはロディギン、スモルニコフ、ロンバーツ、ネト、ジルコフ、ダニー、シャトフ、マウリシオ、ヴィツェル、ジューバ、フッキ。ロディギン、スモルニコフ、シャトフ、ジューバはロシア、ダニーはポルトガル、ヴィツェルはベルギーの現役代表だった。ベンチにもロシア代表のユスポフ、ココリンに元イタリア代表のクリシート、スペイン代表歴のあるハビ・ガルシアという実に豪華な面子。とはいえこのメンバーも上記の公式記録を見て書いているし、当時の私はその豪華さを十分に分かっていたとは言えないが。とりあえずフッキが出ていることに満足し、ロシア代表組で唯一認識していたココリンがベンチなことが残念というくらい。\n肝心の試合の内容については正直あまり覚えていない。かなりゼニトが押し込み、攻撃陣の良いところが目立つ展開のなか、ダニーとジューバの2人を気に入ったことをぼんやりと記憶している。この時点でゼニトで8シーズン目だったキャプテンのダニーはいかにもポルトガル人の10番、というテクニシャンで、華のあるプレーをしていた。クラブショップにもフッキと同等かそれ以上にグッズが売られていてサポーターからの人気の高さが窺えた。大型FWのジューバはおそらく私がいままで現地で観たサッカー選手のなかで一番フィジカルが強い。この手のタイプは必ずしも好みというわけではないけれど、現地観戦だとその肉体の発散するエネルギーには抗いがたい魅力がある。\n試合はダニーが2ゴール、ジューバとフッキがそれぞれ1ゴールを挙げ4-2で勝利。 Youtubeにゴールシーンのハイライトがあった。というかルビンのゴールが2点ともけっこう凄い。\n試合後のスポルチーヴナヤ駅は入場規制がされていて、隣の駅まで歩いた。\nその後 # 後日、スタジアム横にある事務所に発券機に呑まれた金を返してもらいに行く。ごく普通のオフィスの入り口で店員が裏書してくれたレシートを見せると、すぐに剥き出しの紙幣を持った職員が出てくる。この間の試合を観た、ゼニトが勝って嬉しい、というようなことを拙いロシア語で伝え、少々会話をした。\n帰国直前、エルミタージュのすべて4をなんとか観終えた帰り道で最後のゼニト・アリーナ訪問。自分用に例の「НАШЕ ИМЯ ЗЕНИТ」が入ったニットマフラーを買う。できればゼニト要素オンリーの（＝上述のビッグマッチ記念系以外）、キリル文字が入っているものが欲しい、という条件では選択肢は少なかった。ここはロシアなのにラテン文字・英語のものばかりなのは意味が分からない、と当時は思ったが、今考えると日本ならばラテン文字でないマフラーなんて一つもないクラブも珍しくなさそうだし、そんなに理解不能な話でもない。\n土産は友人のために使い捨てライター、フッキの肉体が好きだと言っていた（しかしそれ以外にサッカーの話をしているのは聞いたことがない）先輩に上半身裸のフッキのポストカードを買った。そういえば使い捨てライターもJリーグのグッズではお目にかからない。\nあれから3年半が経った。件のニットマフラーは愛用しているし、海外の5好きなクラブを訊ねられたらゼニトと答えてきた。昨年のワールドカップでロシアに肩入れしたのも、ジューバを筆頭にゼニトに縁のある選手の存在が大きい。けれどもあれ以来ゼニトの試合をちゃんと観たことは一度もないし、日常的に情報をフォローしているともとても言えない。\nゼニトのほうも2017-18シーズンからはついに完成した新スタジアム、ガスプロム・アリーナに移って、すっかり様変わりしたようだ。 収容人員62315人の大半が埋まっているスタジアムの雰囲気は、相手がCSKAだということを差し引いても、あの夜のスタディオン・ペトロフスキーとはかけ離れている。観客の40％が女性になったという記事を観たときは俄かには信じがたかったが、このスタジアムならばまったく有り得なくはないかもしれない。\nそもそもガスプロム・アリーナは本来なら私が行った時点でとっくに完成していたはずで、ロシアらしい計画のいい加減さ6を当時は恨んでいた。しかし今こうして思い返してみると、あの典型的な「旧共産圏の陸上競技場」で観戦できたことをは、やはり得難い経験だった気がする。最新鋭のサッカー専用スタジアムは今後も日本を含めた世界中にできるだろうけれど、ああいった競技場は減っていくばかりだろうから。\nダニーはあの試合の翌月に負った前十字靭帯断裂でEURO2016出場を逃し、その後のキャリアも下り坂に。現在は無所属で半引退状態らしい。ジューバはゼニトと代表のエースとして活躍しているが、一度監督のマンチーニに干されてレンタルされたとき、ゼニト戦に自ら違約金を払って出場して同点ゴールを決めたというエピソードがいかにも彼のイメージに合っていて笑ってしまう。一方直前の怪我で地元でのワールドカップ出場を逃したココリン（代わりに入ったのがジューバ）は暴行事件で投獄されているという無常。フッキはご存知の通り上海上港に移籍して、ACLでJリーグ勢に立ちはだかっている。\n私は一度も聴いたことがないし、出演者についても『アイドルマスター シャイニーカラーズ』で双子の役をやっているらしいということくらいしか知らない。ちなみに向かって左側のオタクは「2人が恋人同士という設定が最高」などと言っていたが、そんな設定はないと思う\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nサンクトペテルブルクのゼニト以外のクラブは移転や解散を繰り返していて、2部以上の全国リーグにいるのはゼニトのみ、ということが多い。モスクワ勢はプレミア常連だけでも4クラブもあるのとは対照的だ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n後述のガスプロム・アリーナが開業して以来、ロシア語で「ゼニト・アリーナ」と検索してもそちらばかりがヒットしてしまう。改名したほうが良いのではないだろうか\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n閉鎖中やツアーでしか入れない箇所を除く\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n多くのサッカーファンが「海外」と言ったとき暗黙のうちに指しているヨーロッパにロシアが入るかは永遠の問題だが、少なくともサッカーにおいてはUEFA所属なのだから文句を言われることはないだろう\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nどこぞの国の国立競技場に関するグダグダっぷりを考えれば、他所のことを言える筋合いはないが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年8月21日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/08/21/205923/","section":"ブログ","summary":"","title":"ロシア・プレミアリーグ2015-16シーズン第20節　ゼニト・サンクトペテルブルク vs ルビン・カザン","type":"posts"},{"content":"","date":"2019年8月18日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AA/","section":"Tags","summary":"","title":"ミステリ","type":"tags"},{"content":"地道な努力を惜しまない勤勉な刑事たち、強固な組織力、最新の科学捜査技術……警察は今や、決して無能じゃない。有能すぎて困るくらいだ。現実問題として、灰色の脳細胞を唯一の武器とした昔ながらの名探偵たちの活躍する余地が、いったいどこにある。現代の都会にかのホームズ氏が出現したとしても、おおかた滑稽さのほうが目立つだろうね」\n「それは云いすぎですよ。現代には現代なりのホームズが現われうるでしょう」\n「そう。もちろんそうさ。恐らく彼は、最先端の法医学や鑑識科学の知識を山ほど引っさげて登場するんだ。そして可哀想なワトスン君に説明する。読者の知識がとうてい及びもつかないような、難解な専門用語や数式を羅列してね。あまりにも明白だよワトスン君、こんなことも知らないのかいワトスン君……」\n有名ミステリを読もうシリーズ第二弾。個人的には、**「僕にとって推理小説 (ミステリ) とは、あくまでも知的な遊びの一つなんだ」に始まるかの有名な台詞で挙げられている 「“社会派”式のリアリズム」　はまだ許容範囲でも、「最先端の法医学や鑑識科学の知識」**で謎を解決するのはちょっと勘弁してほしいと感じる。\n**「本格ミステリの最も現代的なテーマは“嵐の山荘”である」**という台詞には、傍点が振られていることからしてある種の諧謔が含まれているだろうけれど（そもそもメタに考えれば、古典ミステリ作家の名で呼び合うミス研会員たちという存在自体が既にジョークに等しい）、「嵐の山荘」、ひいてはその変奏であり、まさにこの作品も当てはまる「孤島もの」は、元々あまりに「現代的」でなかったがゆえに、実際に発表から30年以上が過ぎてもなお現代的だし、おそらく人間の身体機能そのものが変質しない限りそうであり続けるだろう。1\nミステリマニアでないと楽しめない、という評を見て身構えていたが、特にマニアというわけでもない2身でも面白く読めた。オマージュ元であると思われる某古典もうろ覚えだったし。戸川安宣の解説ではその古典のある点でのカタルシスのなさへの不満と、それこそが本書の執筆動機ではないかという推測が書かれていて、割と納得できるといえばできるけれど、正直そこに関しては本書でも私はカタルシスが十分ではないと思ったので、本当にそれが動機なのだとしたら作者はこれで満足できるのか？　やっぱり違うのでは……？とも思う。\n（改訂が入っているからかもしれないが）文章も読みやすい。強烈な設定の割には登場人物のキャラクターはそこまで立っているわけでもないけれど、館や島といった舞台こそが主人公であると考えれば、これくらいが丁度良いのかもしれない。\nもっとも、現代を舞台にそれらを書くならば、外部との連絡手段としての携帯電話・インターネットが使えない理由付けは必要だろうけれど\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n作中でニックネームとして名が使われているミステリ作家のうち、一作でも読んだことがあるのは3人だけ\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年8月18日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/08/18/161213/","section":"ブログ","summary":"","title":"綾辻行人『十角館の殺人 \u003c新装改訂版\u003e 』","type":"posts"},{"content":"","date":"2019年8月18日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E5%B0%8F%E8%AA%AC/","section":"Tags","summary":"","title":"小説","type":"tags"},{"content":"　タダ券を手に入れたので、敵情視察と言い訳をして。いや、南アフリカワールドカップの後にマリノスサポーターになった私には、個人的な敵対意識はほぼないというのが率直なところだけれど。\n横浜FCの主催試合を観るのは2度目。前回はプレーオフ初年度の最終節で、それは2012年のことだから、もう7年近く前ということになる。ちょっと信じがたい。ついでに2012年のJ2について調べたら、町田と松本が昇格してきて22クラブになった初年度だったり、その町田が今のところ唯一のJFL降格の憂き目にあっていたりと隔世の感がある。\n開始直前に現地着。さすがに一銭も落とさないのも悪いかと思いかき氷を買おうとするも、予想以上に待つことになりキックオフから10分近く経ってようやくスタンドへ。バックスタンドの一番アウェイ寄りのゾーンに着席。区画が狭めとはいえアウェイゴール裏はほぼ埋まっていてなかなかの雰囲気。\n横浜FCはいろいろな意味で見覚えのある選手が多い。田代と武田英二郎が30代というのもびっくり。その田代と松井大輔のダブルボランチは違和感がすごい。目の前で積極的に仕掛ける37番をこれが斉藤光毅かあ、と思っていたが、途中で違う選手と気付く。だっていかにも2種登録の選手が着けそうな背番号だし……。その選手、特別指定らしい松尾佑介は背格好も髪型も本物の斉藤光毅（23番）とそっくりで、正体が分かってからもしばしば混乱した。\n前半は横浜FCがほぼ一方的に押していたけれど点は入らず。生で観るイバは相当な迫力だったが、今日はやや身体が重そうな感じも。\n考えてみれば三ッ沢でサッカーを観るのもかなり久しぶりだ。日産の2階も俯瞰でピッチ全体が観られて悪くない、なんて言っているけれど、三ッ沢に来るとやっぱりそれはただの強がりだと思わざるを得ない。今日は客席もかなり埋まっていて非常に良い雰囲気。\nとはいえ「サッカーが観やすい」以外にはあまり良いところがないというのも変わっておらず1、サッカーにそれほど関心のあるわけではない友人を誘うならやっぱり日産が無難かな、という感じ。日産のことを常々「サッカーが致命的に観にくいこと以外は最高のスタジアム」と言っているが、良いとこ取りで合体してくれんものかな。\n後半はややオープンな展開に。黒川と木村（北九州の頃からなんとなく好き。ジュニアユースから川崎だったことを初めて知った）がボールを触る機会が増えると水戸にもチャンスが増えてくる。水戸が敵陣でセットプレーを取るとゴール前に左SBの志知が入る。それなりに高さはありそうだけれど2、とはいえ大型というわけでもないSBがそこに入るのは珍しい気がする。空中戦強いのかな。\n横浜FCも磐田時代からなんとなく好きな松浦を投入。相変わらずのドリブルで仕掛けていたが、効果的だったかは微妙。松浦・松尾・斉藤の２列目は素人目にもちょっと無理のある気がした。そしてその3人よりも激しく仕掛けてくる北爪はどこがSBなのかさっぱりわからない。そうこうしているうちに横浜FCのミスから小川航基が決定機を迎えるも枠外。この試合の小川の見せ場はこの場面くらい。水戸がチームとして上手くいっている時間が限られていたとはいえ、ボールにはほとんど絡めていなかった。\n小川については昔から、あくまで「アマチュア（育成年代）レベルの好選手」であってプロのトップレベルではその下馬評ほどには通用しないのでは、という気がしてならず3、しかし神奈川県出身者だし応援していないわけではないので頑張って欲しい。でもとりあえず「万能型」ではないと思う。ゴール以外はおまけの古典的ストライカーと考えたほうが本人のためなんじゃないか。\n試合終盤、場内のざわつきの理由を探すと背番号46がライン際にいた。投入されて上がるこの日一番の歓声のなか、私は選手交代に対する儀礼として手を叩くだけ。\n2010年に私が応援するクラブとして横浜FCではなくマリノスを選んだ理由の一つには間違いなく中村俊輔の存在があって、しかし今の私の彼に対する関心は、たぶんスタンドを埋める人々のなかでも下から数えたほうが早い。「好きの反対は無関心」という言葉は好きではない（無関心がどうこうというより、そこにある「嫌よ嫌よも好きのうち」的発想がそれこそ嫌なので）けれど、個人的な意識はともかく間違いなくライバル、宿敵として定義されているクラブへの移籍報道に何も感じなかったときは、その言葉にも一理があることを認めざるを得なかった。自分でも本当にびっくりするほど彼に対する関心がなくなってしまった理由は、列挙しようと思えばいろいろと挙げられるし、しかしそのどれも違う気もする。\n後半ATの激しい攻め合いがこのゲームで一番面白かったかもしれない。俊輔にもFKで見せ場はあって、まあ良かったのではないか。結果はスコアレスドローだったが楽しめるゲームだった。\n退場時、「横浜ダービー絶対勝利」という横断幕が張られ、アジテーションがなされているゲート付近をそそくさと通り過ぎる。歩道橋に至っても人で溢れていて、「帰りに困るクラブになっちゃうなんてな」という嬉しそうな会話が聞こえたのが印象的だった。\n新横浜通りから少し入ったところで、公式グッズではないと思われるシャツを着た人が、迎車表示を出したタクシーの窓を殴りながら怒鳴り散らしていた。まあどこにでもそういう人はいるものだけれど……。\n私はサッカー場ではただサッカーを観ていれば満足なので、「そういう視点」を意図的にインストールするならば、というところだが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n177cmらしい\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nちなみに競技は違えど同様のことをもっとも強く思っているのがロッテの小島和哉で、しかし先日先発で好投していたので私の見る目が危うい\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年8月11日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/08/11/154848/","section":"ブログ","summary":"","title":"2019シーズンＪ２リーグ第27節　横浜FC vs 水戸","type":"posts"},{"content":"","date":"2019年8月2日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E9%9B%91%E8%A8%98/","section":"Tags","summary":"","title":"雑記","type":"tags"},{"content":"　明かりも人も見えない夜の闇を歩いていけるのは、死者や幽霊や妖怪がいないと思っているからじゃない。その証拠に、今だってまったく怖くないわけじゃないし。それでも耐えられるのは、かれらがいたとしても私に危害を加えることはできない、お互いが相手を知覚できるなら、むしろかれらのほうが私に従うはずだ、そうであるべきだ、という自信があるからだ。この自信、私にあるべき力が実際に通用するものなのか確かめる機会にはいまだ恵まれていないけれど、考えてみればいまのアルバイト、死者たちと同じ建物で夜を明かすことでお金をもらう仕事を行う上ではすでに大いなる力を発揮しているともいえて、この自信をもたらす思想の原点はトールキンか十二国記かそれとも他のファンタジーか、あるいはあまり読んだ記憶はないけれどホラーの類だろうか、ともかく本たちと作者たちに感謝する。いやどの作者もこんな怪しい選民思想の土台にされるなんで想像もしていなかっただろうけれど。\nけれど私にも暗闇で姿の見えないものから必死に逃げた経験がないわけではなくて、しかもその暗闇は今よりずっと浅い、まだ薄明かりが残る釧路湿原だった。14時半ごろ最寄駅に降り立った私にとっての帰りの列車（電車ではない）は4時間待ちで、道東の秋は16時過ぎともなればもう日が暮れてしまう。駅の近くの展望台から景色をひととおり楽しんだあとで、どうせなら満天の星空でも観てやるか、一緒に降りてここまできた団体客はこのあたりにとどまるだろうから反対側で、と威勢良く出発して、たぶん2、3km歩いたさきの沼のまわりをぶらぶらしていたところまでは良かったが、あたりが暗くなってくると道路わき、沼と反対側の木々の奥からの物音がやけに気になってくる。もしかしてヒグマじゃないか。熊避けになるようなものなんて持っていないし、ヒグマが私に従ってくれる気もあんまりしない。早足で来た道を引き返す。沼をはなれると両側が林になる。左右両耳に届くすべての物音がヒグマに聴こえる。もう限界だ。走り出す。追いかけてくる無数の足音のほとんどは自分のそれが木々に反響したものだと分かるけれど、そのなかの一つもヒグマのものでないとどうして言える？　息が切れて走るのをやめると足音も消えた。今回は。次回もそうなるとどうして言える？\nアスファルトの道と鉄の道が接したところで、本来人間が走るべきではないほうに乗り入れる。バラストの舗装は何ヶ月も前から穴の空いている靴で走るには痛すぎるけれど、姿の見えない怪物が潜む魔界が左右にあるよりはマシだし、列車はヒグマよりもはるかに勝ち目はないけれど、なにせあと2時間は私の眼前には現れない。\nそんなことを思い出しながら戻ってきた駅は釧路湿原駅ではなく横川駅で、列車（電車だ）を待つのもたった1時間でいい。たぶん15分ぶりくらいに見た明かりは直近と同じ駅のもので、改札の脇に貼ってある、さっきは見えなかったポスターに、「野生動物の出没に注意してください」の文字を見つける。両側を木々にはさまれたさっきの道で、私の足音以外に聞こえた音はなんだったかな。死者や幽霊や妖怪だと思いこもうとしていたんだけど。ヒグマということはないと思うけれど、本州の動物たちは私に従ってくれるだろうか。\n","date":"2019年8月2日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/08/02/223317/","section":"ブログ","summary":"","title":"自信","type":"posts"},{"content":"占星術殺人事件　改訂完全版\n改訂完全版。図書館でノベルスの背表紙と目が合ったので。タイトルはけっこうな言われようのようだけれど、個人的には素晴らしいと思う。妖しい、得体のしれない香りがして、これしかない、と思う。もっとも風格のようなものを感じたのは歴史的な作品だと言われていることくらいは知っていたからであって、そうでなければありふれたタイトルと感じていたのかもしれないが。\n結論から言うと、十分に期待以上に面白かった。日本ミステリー史に残る傑作、という風評の時点で高かったハードルを、40年前の未解決事件、しかも戦中戦後の混乱で忘れられたなどの類ではなくめちゃくちゃ注目されていたもの、という設定で更に上げられていたはずなのだけれど。タイトルに偽りなしの怪事件に、ハードルを乗り越える解決。\n生者は（たぶん）自分しかいない深夜の葬儀場という、いかに有名作とはいえなかなかこの環境で読んだ人はいないのではないかという状況にあって、最初のほうは正直怖かったけれど、いつの間にか作品に夢中になっていたようでまるで気にならなくなった。日頃ほぼネタバレというものを気にしないけれど、この作品に関しては知らずに読めて良かったな、と素直に思う。\n平吉の「小説」（冒頭の謎文書で読者を振り落としてくる作品はトールキニストとして無条件に応援したい）は、いかにも「戦前のいろいろ考えているけれど別に文章がうまいわけではない人の手記」感が出ていて妙なリアリティを感じた。なにより面白かったのは対話だけで進む推理だ。ページじゅう鉤括弧だらけ。短篇ならまだしもこれが100ページ以上も続くというのは見たことがないけれど、テンポの良さがだんだん癖になってくる。\nそれだけに京都パートはあまり好意的には読めない。京都愛好家の間では四条河原町は京都タワーの次に評判が悪い、という台詞には笑ったが（今となってはどちらも「今更文句を言っても仕方がない」枠に入っている気がする）。一度目の読者への挑戦を読んで正直ちょっと文句を言いたくなった。その先はまさに怒濤の展開だったので満足したけれど。\n推理にしろ雑談要素にしろ、決めつけが激しいのは気になった。「実の娘を殺さないだろう」みたいな言説。別に解決には関係しないとはいえ、いやこんなめちゃくちゃな事件を前にしてそんな道徳観を持ち出されても、とか、そもそも俗世間を超越した探偵がそんなつまんないこと言うか？　とか突っ込みたくなる。\n随所に見られるデビュー作らしい（という言い方もいかにも偏見の産物だが）エナジーや感傷も読みどころだと思う。綱島という地名をおそらくはじめてフィクションに見出せたこともポイントが高かった。\n","date":"2019年7月20日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/07/20/112241/","section":"ブログ","summary":"","title":"島田荘司『占星術殺人事件』","type":"posts"},{"content":"","date":"2019年7月15日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E3%82%A8%E3%83%83%E3%82%BB%E3%82%A4/","section":"Tags","summary":"","title":"エッセイ","type":"tags"},{"content":"　昨年あたりから船旅にはまっている。船の良いところは何よりもその居住性だ。バスや飛行機であれば、走行／飛行中の移動は完全に、とはならないまでも極端に制限される。鉄道では進行方向に対して前後には一応自由に行動可能だ。しかし船ならば、進行方向に対して前後はもちろん、左右方向にもかなりの距離を移動できるし、多くの船では上下の階層移動も可能だ。船内で調理をするレストランや大浴場、ゲームコーナーやカラオケのような娯楽施設や、自由に読める本棚があったりもする（釜山から下関への船内で、『機動警察パトレイバー』の漫画版を半分くらい読んだ）。私の乗った船ではコインランドリーが地上よりも安かった。月並みな表現だけれど、まるでホテルのようだ。チェックインしたばかりのホテルを探検したくなるように、船に乗り込むとまずは立ち入り可能な場所をすべて巡ってしまう。とはいえ仮にそういった施設がなかったとしても、充分に楽しめる。このホテルは動くのだから。デッキから単に海をぼんやりと見ているだけでも楽しい。夜には星がとてもよく見える。\n夜行の交通機関として比較すれば、たとえ最安であるカーペットの雑魚寝席ですら、体を完全に横にできるという点で、寝台列車を除くあらゆる夜行交通機関よりも疲労が少ないと思う。就寝するとき以外は船のどこにいてもよいのだし。定期の寝台列車がほぼ絶滅してしまったこの国では、夜行の定期的な交通手段はほぼバスしかないと思い込んでいた。けれども調べてみると、船の夜行便というのは現在でも意外なほど多くの航路が存在している。特に関西発着のものは多く、関西圏ー九州間の夜行バスが撤退した背景には、夜行フェリーの台頭も理由にあるというから驚く。一方、その地域性にはかなりの偏りがあり、南関東を発着する定期航路は、伊豆諸島・小笠原諸島に向かうものに限られているから、私に馴染みがなかったのも納得の行く話ではある。2021年の春に横須賀から北九州への航路が開設予定とのことで、今から楽しみにしている。\nこの本はそんな船旅のうち、特に午前0時から3時までに出航する14の定期航路を扱った紀行文集だ。著者の他の本には、項目あたりのページ数が少なすぎて内容が薄く感じられるものもあったが、この本ではそのようなこともなく楽しめた。\n敦賀港から苫小牧東港まで20時間に及ぶ長大な航路から1、わずか15分の鹿児島港―桜島港までさまざまな船旅。いま私が行きたい場所ナンバーワンであるトカラ列島への航路もある（この本では下船していないけれど）。\nフェリーはたいていトラックの輸送をあてにしているから、徒歩客の乗船は多くない。人が少ない船内でを探索したり思索したり、まどろんだり。船を降りた先の旅も面白い。更に小さな離島航路に乗ったり、廃集落を訪ねたり。\n深夜航路に限らず夜行列車の旅も愉しいが、近年夜行列車はほぼ全滅してしまった。（中略）その代わりに豪華寝台列車（クルーズトレイン）が登場して人気を博している。もちろん豪華寝台列車にも乗ってみたいが、残念ながら２ケタもする運賃を支払う余裕はない。しかも、思い立った時に乗りたいので、先々の予約なんてできない。もっというと、学生時代の貧乏旅行が沁みついているのか、料金が手ごろでないと旅は愉しくない。\n単純に考えると、「お金がもったいない」ということになる。\nでも、そうではないと思う。どうも高額の対価として、ホスピタリティや豪華さをまるまる受け取るということに違和感を覚えてしまう。もちろん、端から事業者は（豪華寝台列車の場合は）富裕層をターゲットにしている。自分自身はターゲットではない。しかし高価な旅は、パッケージされたものを享受するかのようで、そこには手間隙かけて自分流に工夫、アレンジして旅を創造していくという悦びがちょっぴり薄いように思えてしまう。\nそう考えると、深夜航路は素晴らしい。\nお財布に優しいし、広々とした快適な空間を提供してくれる。過度なホスピタリティもなく、乗客を自由に放っておいてくれる。そして、流れる夜の景色とともに、思索する時間、想像する時間をたっぷり与えてくれる。\n引用が長くなってしまったけれど、まさに、と思う。加えていえば、定期航路であることにも魅力があるだろう。土地の記憶、という言葉をよりによって船という交通機関に使うのも奇妙かもしれないけれど、いつも同じ道のりを旅しているうちに染みつくものもあるはずだ。\nとはいえ大局的に見れば、旅客航路を取り巻く状況が厳しいことは間違いないだろう。本書の取材は2017年に行われているが、この中で「孤愁ナンバー１」と評されており、著者の乗車時に他の乗客がいなかったという宿毛フェリーはすでに運航を休止している。所謂RO-RO船、一般旅客が乗れない船に転換してしまう航路も最近は多い。早めに乗っておかなきゃな、と思う。お金がないけれど。\n余談。著者は編集者だそうだけれど、仕事の都合でタイトな旅程となっているものが多い。中でも上述の敦賀港―苫小牧東港航路の、東京の職場から敦賀に直行して乗船し、20時間以上かけてやっと着いた北海道からすぐに飛行機（「深夜飛行」）でとんぼ返りという顛末には勝手に同情してしまった。暇にまかせた旅行ばかりしてきた自分には想像しづらい話だ。就職したくないなあ、でも就職しないと金がない……。\nこの航路を逆方向に、苫小牧東港から新潟まで昨年乗船した。ちなみに苫小牧東港は苫小牧市にはなく、かなりの僻地にある。日高本線（胆振東部地震の影響で代行バスだったが）の最寄り駅から原野を徒歩20分とのことで歩こうと思ったが、羆が出るという情報に怖気づいてやめた\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年7月15日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/07/15/235431/","section":"ブログ","summary":"","title":"清水浩史『深夜航路』","type":"posts"},{"content":"※『羽根と根』4号初出評論を元に、誤字脱字等を訂正した\n１ # 短歌に興味を持って間もない人と話していると、おすすめの短歌入門書をよく聞かれる。また大型だけれどもそれほど短歌に力を入れていない書店の短歌コーナーに行くと、そのスペースの多くは入門書に占められている。\n短歌の世界に足を踏み入れようとしている人の多くが入門書を求めるのは、短歌という馴染みのなく得体の知れないものを作るには、そのための特殊なスキルが必要だと考えるからだろう。そのような場合想定されている「入門書」は、ほとんどの場合短歌の作り方のいわゆるハウツー本だし、実際世の短歌入門書の多くはそのようなものだ。\n三上春海と鈴木ちはねのユニットである稀風社が発行した『誰にもわからない短歌入門』は、そういった一般的な入門書とはだいぶ趣が異なる本だ。そこに載っているのは、三八首の短歌（ではないものもいくつか存在する）に対する三上・鈴木の往復形式の批評とゲストによる三上・鈴木の歌に対する批評、合計七八個の一首評である。一般的な短歌入門書には間違いなくあるだろう、短歌の用語や技法を体系だてて解説するページもない（もちろん一首評のなかでそれらが説明されることはあるが、到底網羅的ではない）。この本を読んでも、短歌を作ることに直接的に役立つとはちょっと思えない。ではそのような本が持っている「入門」書としての機能はなんだろうか？\nたとえば鈴木は〈ぼくゴリラ　ウホホイウッホ　ウホホホホ　ウッホホウッホ　ウホホホホーイ〉（菱木俊輔）を、以下のように評している。短歌コンクールの高校生の部で田井安曇が選び、インターネット上で嘲笑的に（もちろん、と言うべきなのかはわからないけれど、嘲笑の対象となったのは選者であり、ひいては歌壇だ）話題にされたこの歌を取り上げる入門書はおそらく空前絶後だろう。\n昔の人のことはわからないが、少なくとも今の人は誰しも生まれつきに七五調の詩型を知っているわけではなくて、仮にいま僕やあなたが短歌や俳句のような七五調の定型詩を詠むのだとすれば、その意識はきっと後天的に体得されたものなのだろう。多くの場合、僕たちは人生の中のどこかで、何かのきっかけで短歌という詩型に出会って、そして今ここにいる。その出会いを劇的な経験として覚えている人も少なくないはずだ。あるいは、今まさにその出会いの渦中だという人もこの頁を捲っているかもしれない。\n（中略）\nこの歌にはそういう、未知なる短歌定型と自分が初めて衝突したときの驚きや興奮、新しい玩具を見つけた高揚感のようなものが感じられる。短歌定型のすごいところは、どんな言葉を入れようとも、それを定型が許す限りは、その言葉は短歌になってしまうという点だ。\n『誰にもわからない短歌入門』の特色であり素晴らしいところは、眼前にあるものが短歌である（そして短歌でないものであれば、それが短歌でない）という前提にそれぞれのやりかたで愚直なまでに立脚し、自分が「誰にもわからない」短歌というものを読んでいると強く自分に言い聞かせながら短歌を読んでいることだ。その結果として三上と鈴木、それに二人のゲストたちの一首評には短歌というものを少しでもわかることにつながるヒントが数多く記されている（『誰にもわからない短歌入門』を読んだ人ならば、この評論もまたそこから多くのヒントを受け取っていることを読み進めるうちに察すると思う）。\n結論を言ってしまえば、『誰にもわからない短歌入門』は、短歌を読むことへの入門書なのであり、だから作り方の入門書と趣が違うのは当然のことだ。読者は三上と鈴木（とゲスト）が短歌をどう読んでいるかを読むことで、短歌をどのように読めばよいか、どのように読むことができるのかを学ぶことができる。短歌を作ることと違って、読むことに特殊なスキルが必要だということはなかなか意識されづらいが、しかし間違いなく必要なのだ。少なくともそうやって読んだほうが楽しめる。\nでは、そういった短歌を読むことに必要なスキルを駆使した、いわば短歌用の読み方とは具体的にどのようなものだろうか？　第一は『誰にもわからない短歌入門』のように、それが短歌であると意識して読むことだろう。なにしろ作者はそれが短歌であると思い、短歌として読まれると思って作っているのだから、そうしなければ多くのものを見落としてしまうことになる。\n他にはどのようなものがあるだろうか。おそらくそれは短歌に固有のルールと関わってくるはずである。短歌に固有のルールとはなんだろうか。明記されているもの、はたまた暗黙の了解、様々なものがあるだろうし、当然人によって採用しているルールも異なるだろうけれど、一つほぼ全員の同意を得られそうなルールがある。それは短歌という詩型の原理的な定義、すなわち短歌は定型詩であり、その定型は五・七・五・七・七である、というものだ。このルールと関係する「短歌用の読み方」があるのではないか、と推測したところで話を進める。\n２ # 穂村弘の『短歌という爆弾』はあれほど広く読まれていながら「入門書ではないよね」などと言われがちであるけれど、その理由もやはり本の大半（３章「構造図　――衝撃と感動はどこからやってくるのか」）が、短歌の読み方の入門であるからだ。『誰にもわからない短歌入門』と『短歌という爆弾』は、個性的でありながら同時に普遍的な短歌の本質に迫る読み方を持つ手練れの読者が、実践を通して自らのスタイルを開陳することで短歌の読み方を教え、あるいは挑発するという点で、極めて似通った性格を持つ本だと思う。\nところで、『短歌という爆弾』の副題は「今すぐ歌人になりたいあなたのために」であるけれど、これはなにか示唆的な気がする。紙幅の大半を短歌の読み方の入門に割く本にこのような副題を付す穂村が考える「歌人」の要件には、もしかすると単に実作者であるというだけでなく、短歌を読むためのスキルを持っているという要素も含まれているのではないだろうか？　実際、「〈読み〉の違いのことなど」（『短歌の友人』所収）という文章で、穂村は以下のように書いている。\n歌人の〈読み〉の場合、それが自分の〈読み〉と異なっていても、〈読み〉の軸のようなものを少しずらしてみれば理解はできることが多い。大きくいえばそれは個々の読み手の定型観の違いということになると思う。\nそれに対して、他ジャンルの人の短歌の〈読み〉については、定型観がどうとか〈読み〉の軸がどうとかいう以前に、「何かがわかっていない」「前提となる感覚が欠けている」という印象を持つことが多い。（中略）「前提となる感覚が欠けている」とはどういうことか。これをうまく表現するのはなかなか難しいのだが、例えば、「うたというのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という捉え方はどうだろうか。実作経験のない読み手には、この感覚もしくは認識が欠如しているように思われてならない。\n穂村は「歌人」と「実作経験のない読み手」＝「他ジャンルの人」の〈読み〉には差異があると述べている。とはいえ短歌というジャンルが閉鎖的なものだとこれ以上思われてはかなわないので慌てて勝手な補足をしてしまうけれど、これは歌人＝実作者にしか会得できない奥義や真理があるなどという話ではなく、おそらく実作経験によって修得しやすい〈読み〉のスキルがある、ということだと思う。1\n「歌人」とそうでない人の〈読み〉の差異を説明するために、穂村は「うたというのは基本的にひとつのものがかたちを変えているだけ」という捉え方を提案している。穂村はこの感覚／認識を「歌人はみな無意識的に知っているように思われる」と続けており、「歌人」であるかはともかく、少なくとも実作者である私にも確かにそういった感覚は理解できる。短歌の根源であるというこの「ひとつのもの」とは一体なんだろうか。穂村は評論のなかで。近代以降の短歌における「ひとつのもの」とは「〈われ〉の『生のかけがえのなさ』」ではないかと回答している。\nかけがえのない〈われ〉が、言葉によってどんなに折り畳まれ、引き延ばされ、切断され、乱反射され、ときには消去されているようにみえても、それが定型の内部の出来事である限り、この根源的なモチーフとの接触は最終的には失われない、一人称としての〈われ〉が作中から完全に消え去っているようにみえても、生の一回性と交換不可能性のモチーフは必ず「かたちを変えて」定型内部に存在する。それこそが少なくとも近代以降の、短歌という詩型の特殊性だとは言えないだろうか。\n先に述べた歌人の〈読み〉における「復元感覚」とは、このような「生のかけがえのなさ」が、一首の中でどのように「かたちを変えて」存在しているかを把握する働きに他ならない。\nここで述べられている「ひとつのもの」の正体はモチーフである。しかしフォルムの面から見たとき、もう一つすべての短歌に共通して存在し、根源と言える「ひとつのもの」がある。\nそれは右の文章のなかにも姿を現しているものである。そう、定型だ。\n穂村は実作者とそうでない人の読み方の違いについて定型観の問題ではないとしているが、しかしそれは極めてプリミティブなレベルで、やはり定型観の問題ではないだろうか。言い換えれば「歌人」でない人々が「かけがえのない〈われ〉」「生の一回性と交換不可能性のモチーフ」がつねに定型内部に存在するという短歌の特殊性を認識できないのだとしたら、それはそもそも定型の存在を十分に認識できていないために、その作用をも認識できていないからなのではないだろうか。\nこの場合の定型観とは、ある一首の歌を読むとき、その背後に「定型」を「観」ることである。実作者は一首を読む際に、その背後に定型を幻視している。そして「ひとつのもの」＝定型が「かたちを変え」た結果が、私たちが読んでいる一首の歌であるとすれば、定型は単に五・七・五・七・七の器であると同時に、書かれなかった無数の歌の可能性でもある。陳腐な比喩だけれども、定型は「シュレーディンガーの猫」の箱のようなものだろう。開けられる＝書かれるまでは中身がわからない、可能性が渦巻いている容器だ。\nすべての文芸作品は選択に選択を重ねた末に成立するものである。どの形式で書くか、という段階から、既に選択は始まっている。書かれるべき内容が決まっているとき、書くことは数多くの類似する語（類似項は一般に意味になるだろうけれども、あるいは音韻を重視するならば音にもなりうる）の中から、一つの語を選択し残りを切り捨てるという作業を繰り返すことだ。文章はどのようにだって書けるけれど、文章があるあり方で書かれることは他のあり方で書かれないことである。だからこそどうやって書くかを選ばなければならないし、それが文体というものだ。文体を選択する、という言い回しは文体というものの本質を考えれば不正確さを含んでおり、そもそも選択するから文体という概念が成立するのだ。もし一つの内容に対して一つの書き方しかできないのなら、そこにそれぞれの文体 (スタイル) が表れる余地はない。\nしかしなかでも短歌のような定型詩は、その作者に最も厳しい取捨選択を迫る形式であると言ってよいだろう。（多少の破調が許容されるにせよ）器の大きさ、つまり上限の音数があらかじめ決まっている以上、作者が書き込むことができるスペースも制限されている。定型を前提としたとき、なにかを選択することは、他のすべてを諦めることにあまりにも直結する。あることを書くことは他のことを書かないことであり、ある書き方をすることは他の書き方をしないことである。だから定型の内部において、無駄なものの存在は許されない。そこには「かけがえのない」ものしか存在できない。「歌人」は実作を通してそのことを実感していく。\nある完成した一首の背後には選択されず諦められた無数の可能性、無数の歌があるという認識。つまるところ歌人の短歌の読み方とは、そういった書かれなかったものまで視野に入れて書かれているものを読むことである。目の前に書かれている一首のありかたは、書かれなかった無数の歌をねじ伏せてその位置を占めるに相応しい、ほんとうに交換不可能なものなのか？　作者がこのように書き、他の可能性を切り捨てたのは正当な選択だったのか？　歌会などの場において頻出する「語が動く」「必然性がない」という評価は、ここに書かれている言葉が交換可能なのではないかという疑念の表れであり、書かれなかったものに対する怯えに起因している。\n穂村は入門書や小説誌への連載などといったいわば「歌人」でない読者に向けた文章で、ある歌の一部を原作よりもつまらなくなるように書き換えた改作例との比較によって、原作の魅力を説明するという手法を多用する。これは書かれなかった、作者が切り捨てた歌を可能性の雲の中から無理やり引きずりだして突きつけることによって、書かれた歌の必然性、作者の選択の正しさを強調するという、まさに「歌人」的な〈読み〉の極端な形での実践と言える。\n３ # ところで、つねに一首の背後に定型を幻視し、ある歌がそのように書かれている／作者がそのように書くことに相応しい必然性を求める「歌人」らしい読み方を突き詰めると、ある転倒が発生すると予想される。つまり、どんなに修辞的な必然性がなさそうに見えたとしても、事実このように書かれている／作者がこのように書いた以上、なにか相応しい理由があるに違いない、と考えてしまうという逆説だ。\n夏の本棚にこけしが並んでる　地震がきたら倒れるかもね\n／五島諭『緑の祠』\nはじめてこの歌を読んだとき、ひどく戸惑ったことを覚えている。永井亘は「この歌を読んで最初に抱いた感想は、何も言っていないに等しいのではないか、ただそれだけだった」2と述べているが、私の感想もほぼ同じだった。上句で報告される情景のトリビアルさと把握の大雑把さもさることながら、唐突に地震が起きる可能性を提示し、しかしその結果すらも可能性しか示さない下句はそれにも増して茫洋としていて、こんなことをわざわざ付け加えた意味がわからなかったのだ。しかしほんとうに戸惑った理由は、この軽やかだが単に仮定に仮定を重ねただけに見える下句、特に「かもね」などという放埓な発話体に、なにか強烈な確信が籠っていると感じずにはいられなかったことだ。\nいまの私にはその答えがわかっている。私が感じとったものは、まさに可能性そのものへの確信だったのだ、地震がくるかどうか、こけしが倒れるかどうか、それらは確かに不確定だ。しかし、地震がくるかもしれないこと、こけしが倒れるかもしれないこと、そして倒れないかもしれないことといった可能性があることは確定しているのだ。未来ではあらゆることが起こりうること、つまり不確実さへの絶対的な確信が、この歌にはこもっていると思う。\nしかし私はなぜそんなことを感じたのだろうか？　いくら読み返してみても、この歌のどこにもそんなことは書かれていないし、やっぱり何も言っていないようにしか見えない。\n何も言っていないようにしか見えない下句に確信を感じたのは、何も言っていないようにしか見えなかったからだ。\nより正確に言えば、限られたスペースを割いてこんな何も言っていないに等しいことをわざわざ書くのにはなにか理由があるに違いない、それがなにかはわからないけれど、作者にとってこう書かねばならない必然があるに違いない、という思考回路が働いたからだ。作者にはほかのことを書くことも、ほかの書き方をすることも可能だったはずだ。穂村の手法に倣い、たとえば「かもね」を「だろう」と交換すればこの歌はどうなるだろうか。日常に潜むリスクを告発する、というような社会的な文脈で解釈できる「なにかを言っていそうな歌」になったのではないか。しかし作者はそうはせず、あえて「かもね」を選んだ。その理由はなぜだろうか。「地震がきたら倒れるかもね」という曖昧な言い回しは、もしかすると作者にとっては曖昧でもなんでもなく、ほんとうにこのように確信しているからそう書いたのではないだろうか？\nこの何も言っていないようにしか見えない下句が、しかし無数のいかにもなにかを言っていそうな下句に勝利して私の目の前にある、と考えるとき、その何も言っていないようにしか見えなさゆえに価値を持つ、という転倒。定型という場においては、一読してあまりに3「語が動く」ように見えるがゆえにかえって「動かない」ように見えるという逆説、「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」、というメカニズムが存在しうるのだ。\n私は五島がこの短歌定型が生む転倒したメカニズムに極めて自覚的な作者なのではないかと考えている。もちろん五島が実際にそのような考えのもとで作歌したのか私に知る術はないし、五島の歌のすべてがそのようにして成立していると言うつもりはない。たとえば五島の代表歌と言えるだろう〈海に来れば海の向こうに恋人がいるようにみな海をみている〉や〈風景に不意に感情が降りてきて時計見て、また歩かなくては〉などは、歌を構成するすべての要素が緊密に連繋して動かすことができない、いかにも交換不可能に見えて実際に交換不可能な秀歌だろう。これから取り上げる歌は、さまざまな方法的試行を行っている（と思われる）五島の歌のうちごく一部にすぎない。しかしそれらは、「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」という転倒の戦略的な利用を目論んで成功している、少なくともそうやって読むことによって輝く歌だと思う。\n４ # 悲しみが湧出しては埋めつくす茶の芽を摘めば少ぅし香る\n朝焼けのジープに備え付けてあるタイヤが外したくてふるえる\nこないだは祠があったはずなのにないやと座り込む青葉闇\n夏の盛りに遊びに来てよ、今日植えたゴーヤが生ってたらチャンプルー\n買ったけど渡せなかった安産のお守りどこにしまおうかなあ\n一首目の「少ぅし」という独特な表記、二首目の下句における主語と述語のねじれた関係、そして三首目以降において、歌の一部分だけに登場するラフな発話体。いずれも一読して違和感を覚えるが、その違和感の理由はそれらがあまりにも交換可能に見えるからだ。\nもっともわかりやすい二首目を例に取れば、なぜ「タイヤを外したくてふるえる」、あるいは「タイヤが外されたくてふるえる」ではなぜいけないのだろうか？　同様に「少ぅし」などという表記が奇妙に見えることも、「ないや」「生ってたらチャンプルー」「かなあ」などという部分が周囲から浮いていることも、作者が認識していないわけではないだろうに、この歌はなぜこのように書かれているのだろうか？\nそうやって作者がなぜこのように書いたか、この歌がなぜこのように書かれているのかと疑問を抱く読者は、そのときすでにそこになにかはわからないけれど強い作者の意志が込められていると思っているのである。\n『緑の祠』を取り上げている『短歌研究』二〇一四年五月号の作品季評は、穂村弘・花山多佳子・小島なおの三氏が担当している。そこで穂村は以下のように発言している。\nただ、そうすると交換可能に見えちゃうんだよね。あるフレーズが、これでもいいけど、動いて全然違うフレーズもありうるように読めてしまって。それがこれでなくてはいけないのだという感覚をどこから導き出せばいいのか、ちょっとわからないんですよね。\nここで穂村は五島の歌の交換可能性を、否定的な立場から指摘している。一方、座談会の後半では、以下のようにも評価している。\n作中に自己の分身を出すと言うよりも、文体や口調、価値観全体にすごくその人の匂いがする。「子供用自転車とてもかわいいね　子供用自転車はよいもの」とか。その人というものを強烈に感じますよね。うっと来るぐらい。\n穂村が五島の短歌にその人＝五島の文体や口調、価値観を強烈に感じているのはなぜか。それはまさに五島の短歌には「交換可能に見え」「動いて全然違うフレーズもありうる」部分があると感じているからではないだろうか？　交換可能性を認識しているからこそ「それがこれでなくてはいけない」という必然性を探す必要が生じ、そしてそのどこかにあるはずの必然性を「その人」、すなわち作者があえてこれを選んだという事実に見出したのだ。右で引用されている歌についての穂村の「普通だと、子供用自転車かわいいと提示したらその理由づけをしなくてはという方向に意識が行くけど、それを拒否して下の句で『子供用自転車はよいもの』という。この出し方は生理的であると同時に意図的なものですよね」という評は、そのことを裏付けているだろう。\n他の語や文体でも書けた、むしろそちらのほうが普通だったという交換可能性を読者が認識することは、同時に作者がそれをあえて選択したという事実を認識することでもあり、結果としてその歌には作者性が刻印され、強度が高まるのだ。\n午後５時に５キロの米を買いに出てどこかにきみはいないだろうか\n栗の花蹴散らしながら行く道のどこかに君はいないだろうか\nセロテープで補修したノートのことを覚えていなくてはならない、と\nセロテープで補修したノートのことも覚えていなくてはならない、と\n最高の被写体という観念にこの写真機は壊れてしまう\n見捨ててはいけないという観念にこの写真機は壊れてしまう\n『緑の祠』の奇妙な点として、類似したフレーズを持った短歌が収録されていることが挙げられる。特に三首目と四首目などただ助詞一文字・一音の相違点しかないし、その違いが生む意味も確かに読み取りづらい。どんな俳句も「それにつけても金の欲しさよ」をつければ短歌になる、という（俳人も歌人も怒らせそうな）冗談は所詮冗談でしかないけれど、しかし一首目・二首目の「どこかにきみ／君はいないだろうか」という下句はあまりに淡く、どんな上句に続けてもそれなりに形になってしまいそうだ。加えて言えば、一首目の「午後５時に５キロの米を」という上句は、このように書かれる必然性が音声面にあることがあまりに露骨であるため、かえって意味の面ではまったく必然性がないように思えてくる。\nこのような歌は五島が短歌の交換可能性について極めて自覚的であることの証左ではないか、と私は考えているけれど、先述の作品季評でもこのことについては指摘されており、小島は「何か意図があるのかな」と疑問を発している。しかしこのような型破りなやり口に直面したとき、実際のところ読者が心内に抱く疑問は「どういう意図があるのだろうか」になってはいないだろうか。何の意図もなく、単に作者のミスで見落としただけ、と考える人は少ないだろう。\nひょっとするとこれらの歌は、読者に短歌の交換可能性を意識させるための、五島からのサインなのかもしれない。\n５ # 今更だけれどもこの企画4のテーマは「定型と文体」だ。私はこの評論を定型論としてつもりで書いているつもりで、その論旨は「歌人は短歌を読むときつねに定型を幻視しており、またその読み方を突き詰めることで短歌をよりおもしろく読むことができる」という要約してしまえば穏当であまりおもしろくもないものだ（中途半端に文体のほうにも口を挟んでしまっているあたりに、私の欲張りさと優柔不断さが表れているけれども）。とはいえここまでの議論は、定型の「書かれなかった無数の歌の可能性」といういささか抽象的な側面についてのものに偏った感は否めない。遅まきながら今度は実体的な（という表現もおかしいけれど）定型、つまり五・七・五・七・七の器としての側面について考えてみたい。\n歌人が五・七・五・七・七の器を幻視していることが顕著に表れるのは、破調の歌を読むときだ。言うまでもないが破調という概念は定型が存在するから発生するのであって、破調を認識するためには定型を認識する必要がある。だから「破調」からなにかを読み取ろうとすることは極めて「歌人」的な読み方である。\n〈夢らしきものの手前の現実をずっと過ごしているわけだけども〉（脇川飛鳥）という歌に対する評で、穂村はいかにも「歌人」らしい読みを披露している。\nこの結句八音も「いるわけだけど（も）」と「も」の一音をとるだけで定型に収まることになる。では、そのことをもって、この字余りを定型意識の上に成り立つ技法とみなせるだろうか。私にはそうは思えない。この字余りが意識的であることは確かだが、何に対して意識的かと云えば、それは今ここの〈私〉の実感を忠実に再現することに対してのみであろう。ここには定型という「枠組み」を省みた痕跡がないのだ。ただし、この字余りによって実感の再現性は確かに増していると思う。\n（「短歌的武装解除のこと」『短歌の友人』）\n※文字色は筆者による、以下同様\n興味深いことに、岡井隆によるかの有名な『現代短歌入門』（この本も本質的には短歌の読み方の入門書だ）においても、同じような指摘がなされている箇所がある。こちらは〈「無名青年の　徒」として歌碑を　建てしもの　ひとしく老いて　雪にこもるや〉（土岐善麿）への評である。\nこの第一句の「無名青年の」は八拍であり、三拍の余りということになるが、これは作者土岐善麿の、「無名青年の徒」という言葉への執着が、音数上の約束を犠牲にしてまで、おのれを徹したというかたちであります。字余りのほうがこの際効果的である、などという韻律上の要請から生まれたものではまるきりない。\n（『現代短歌入門』第六章「定型について」）\n二つの評はどちらも、破調が作者の定型への技法的な意識（韻律上の要請）から生じているわけではないと指摘している。しかしより興味深いもう一つの共通点は、それにもかかわらず、両者がそれぞれ「『無名青年の徒』という言葉への執着」「今ここの〈私〉の実感を忠実に再現すること」という作者の意志を破調から読み取っていることである。ともに作者に定型への意識、すなわち破調への意識がないことを指摘しているにもかかわらず、なぜその一方でその破調によりにもよって作意を見出そうとするのだろうか。作者が定型を意識していないというのなら、この破調はたまたまそうなってしまったというだけでは済まされないのか？\n穂村の評に明らかであるように、両者は決して作者が定型をまったく意識していない（＝破調であると認識していない）と考えているわけではない。指摘の核はあくまで作者が破調にすること自体を目的とし、それを積極的に選択しているわけではないという点にある。つまりこれらの歌でもやはり、定型よりも内容を優先するためという技法的にはいわば消極的な理由であっても、作者があえて破調を採り、定型を退けるという選択を行っていると両者は考えているのである。これらの歌では、それぞれ「『も』の一音をとるだけで定型に収まる」こと、また初句で「三拍の余り」という極端さが、「あえての破調」という印象を強めていると考えられる。\n「作者が定型を前提として創作している」ことを前提として短歌を読む読者にとって、原理的にはあらゆる破調が選択の結果であり、そこに何らかの意味を見出すに十分なのだ。そしてそこに技法上の必然性が見えず、かつ回避（＝定型に収めること）が可能に思われるとき、どこかになくてはらならない必然性は「定型という器を壊してでもこう書きたい」という作者の強い意志に見出されることになる。これは「書かれているもの」があえて選択されるにあたっての競争相手が無数の「書かれなかったもの」から「そうあるのが普通である」定型に変わっただけで、メカニズム自体は前項までと同じである。競争が厳しいものであったことの根拠が、ライバルの量から質に変わったとも言えるだろう。\n五島の破調の特徴は、定型に（あるいは初句六音や七音など、一般に定型に準ずるものと認められているものに）ほぼ沿った部分と、大規模な破調部分のギャップであり、またその両者が一首のうちに同居することにある。\nこのような歌の作りから読者が抱く印象も、やはり「定型に収めることもできたはずだが、あえてそうしていない」というものになるだろう。そういった印象を与えることが破調により強い効果を持たせるのである。\n無とは何か想像できないのはぼくの過失だろうか　蝶の羽が汚い\n信じることの中にわずかに含まれる信じないこと　蛍光ペンを掴む\nくもりびのすべてがここにあつまってくる　鍋つかみ両手に嵌めて待つ\n息で指あたためながらやがてくるポリバケツの一際青い夕暮れに憧れる\n蝶や黄金虫の羽根が好きだろう肥沃さがあなたのいいとこだろう\n一首目と二首目は類似した構造を持っている。字空け以前の四句まではどちらもほぼ定型に沿っているが、字開け後の結句はどちらも十音と大幅な字余りになっており、また内容面でも四句以前とは断絶している。このような断絶が許されるのならば結句には原理的にはどんなフレーズも存在を許されるはずだ。そうであれば任意の七音を持ってくることは簡単であり、むしろそちらのほうが自然にも思える。しかしそうではなくこのフレーズが使われているのは、なにかこのように書かれなければならなかった必然性、作者にどうしてもこう書かなければならない理由があったからだ……とこの大幅な字余りは読者の思考を誘導する。\n三首目は「くもりびの／すべてがここに／あつまってくる／なべつかみりょう／てにはめてまつ」と読みたい。三句以外は定型に収まっており、また下句では修辞的な句またがりが行われている。そのなかで字余りしている三句は周囲から浮き上がって見える（ただでさえ三句の字余り・字足らずは目立つのだ）。「あつまってくる」ことへの期待感のようなものが高まっていくさまが感じられる。阿波野巧也はこの歌について、「くもりびのすべてがここにあつまって　鍋つかみ両手に嵌めて待つ」という改作と比較し、「定型の五音による滞留を突破することで、そこには新鮮なリズムがあるように思う」と述べている。5\n四首目は上句が定型に収まっている一方で、下句は二三音もあり、完全に定型から逸脱している。分割するならば「ぽりばけつの／ひときわあおい／ゆうぐれにあこがれる」と三つの句に分けることが妥当だろうか。いずれにせよ、上句が定型であることに油断していた読者は下句で急加速を強いられるし、ここまで長ければどんなに加速しても定型のタイムリミットには間に合わない。それがなにかはまったくわからないけれど、なにか切迫感やあふれ出すようなものがなければこんなふうには書かない／書かれないだろう、と思う。\n五首目は私が特に好きな歌だ。初句・二句では「ちょうやこが／ねむしのはねが」という名詞の途中での句またがりによる韻律への違和感が、かすかな気味の悪さを残す。それに対して「肥沃さ」という通常土地などに対して用いられる、生物に対しては使わないしましてその価値になるはずもない概念を、人間であるだろう「あなた」に対して用いている四句の、その伸びやかな字余りからはほんとうに「肥沃」な感じがして、「いいとこ」というくだけた表現に相応しい「あなた」への肯定が感じられる。\n６ # 短歌入門書をあれこれとつまみ食いしたり、かと思えば『緑の祠』について論じたり、気がつくとなんともまとまりのない評論になってしまった。どう締めくくればよいのだろうか。\nこの評論を書くためにいくつかの『緑の祠』論を読み直して気がついたことは、それらの間で相互に類似したキーワードが提示されていたことだ。堂園昌彦「世界の多層化とそこで働く意志について」であればタイトル通り「世界の多層化」という複雑性と「そこで働く意志」という五島の選択の存在が、石川美南「世界との距離――五島諭の変遷」では（二〇〇八年以降の）五島の歌が「未来の不確実性をあっさりと口にする」点と、また「「彼」はためらいながらも、引く方を選ぶ」6と、こちらもやはり五島が選択を行うことが指摘されている。すでに引用した永井の評論では、五島の歌の「可能性の提示」という要素が、永井が筒井康隆を引用しつつ提唱する「超虚構短歌」という概念に繋がると論じられている。\n堂園と石川の評論が同じ同人誌に掲載されており、永井が二人の評論を参照したことを明言している以上、共通点があるのは当然かもしれない。しかし「可能性」≒「不確実性」や「選択」というキーワードに興味を引かれる。これらの評論における「可能性」や「選択」はもっぱら内容面についての批評に発しているキーワードであるし、分析されている歌は必ずしも私の評論のそれと重ならない。それでもこの性質は、語や韻律の交換「可能性」が強調され、そのなかから一つを「選択」されていることが見えるために強度が高まっている、という論じてきた五島の歌の特徴と通底しているように思える。\nこの評論で扱った歌は、五島の歌のなかでも特に「わからない」と言われがちなタイプの歌ではないかと思うけれども、この評論が五島の歌を少しでも「わかる」ための一助になれば嬉しい。短歌であれ何であれ芸術を「わかる」必要なんて別にないと思うけれども、「わからない」という感覚がその作品を鑑賞する上でなにかの妨げになるのだとしたら、「わかる」と感じられたほうがよいだろう。\nこの評論で分析した読み方についてはもっぱら「歌人」を主語にしてきたけれども、もちろんアンケートを取ったわけでもないので正直に言ってしまえばこれが多くの歌人に受け入れられるものかは分からない。「歌人」らしい読み方を論理的に突き詰めれば少なくとも一つの帰結点はここにあると私は信じるが、個々の歌人の実感には当然異なるものもあるだろう。結局のところ私も個人的な読み方を開陳しただけであって、この評論も私なりの短い「短歌入門」なのかもしれない。とはいえそれならば「短歌入門」として力不足でないこと、どこかで普遍性に通じ、他者を挑発する力を持っていることを祈りたい。\nところで、この評論ではここまで意図的にある可能性を無視してきた（注で少しだけ言及したけれども）ことを告白しなければならない。「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」というメカニズムを成立させるためには、そうする必要があったからだ。\nふたたび『誰にもわからない短歌入門』に戻りたい。今度はゲストである石井僚一の一首評を取り上げる。石井は鈴木の〈総工費六億円の橋がありそれをふたりは並んで渡る〉という歌に対して以下のような批評を行っている。\nこの歌には特別な修辞がない。比喩も倒置も句切れも何もない。破調もなく歌はきれいに五七五七七だ。「橋があり」という三句目が短歌らしいといえば短歌らしい言葉の使い方だが、これも口語短歌ではよくある言葉の繋ぎ方でまったく工夫がない。この歌からは短歌らしい情感が何も生まれてはこない。\n（中略）\nこの歌の作者は鈴木ちはねという人だけれども、この歌で言葉を定型に収めることができている以上、最低限の知能はあるはずだ。だから、この歌の文体の選択にもきっと何らかの意思がある。\n作者が発行人の片割れである本にこんなことを書くのだからまったく人を食ったような態度だけれども、ここには「歌人」の読みの転倒が典型的なかたちで表れている。「まったく工夫がな」く、「短歌らしい情感が何も生まれてはこない」歌を目の前にして、そうであるにもかかわらずこう書かれている以上きっと作者が「何らかの意思」をもってこの文体を選択していると推測する。この評論で私が展開してきたものと同じ読み方だろう。\nこのように推測するにあたって、石井は作者が「最低限の知能」を持っていて、その気になれば詩的修辞を活用し、いかにも「短歌らしい情感」が生まれてくるように書けるということを前提としている。この前提はすなわち、いま読んでいる歌がこのような奇妙な形をしている理由を考察するにあたって、単に作者の選択が失敗に終わっている、作者が下手であるという可能性をひとまず無視するということである。つまり「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」というメカニズムは、作者に対する信頼があってはじめて成立するのだ。\n「交換可能に見えるがゆえの交換不可能性」を頻繁に感じる私の意識の根底にあるものは、ある程度短歌を読みまた作ってきた実作者であれば、その気になれば「わかりやすく」「短歌らしく」書くことは可能であり、むしろそのほうが簡単なのだ、という認識だ。これが乱暴な断定で、それこそ作者を盲信しすぎだということはわかっている。短歌という文学がほんとうにそんなに簡単な、底の浅いものだとしたらとっくに滅びているだろう。それは困る。\nそれでも私は少なくとも一度は、どんな歌にもそう思って向き合ってみたい。もしも作者がそういった領域に勝負をかけているとしたら、それをこちらの先入観で見落としてしまうのは失礼だし、とても勿体ないと思うからだ。\n定型というステージの上でだけ使える、何の変哲もない一つの「書かれているもの」を無数の「書かれなかったもの」を倒してきた唯一無二のヒーローや、あるいは強大な定型そのものを壊してしまったモンスターに変身させる魔法。そんなものがあるとしたら、まさに定型の恩寵、短歌の可能性と言うべきではないだろうか？　そしてその魔法は、作者と読者の協力によってはじめて発動する。作者が定型を信じる心と、読者が作者を信じる心の両方が必要なのだ。だったら私は、とりあえず作者を信じてみたい。魔法にかかってみたいからだ。魔法が発動せず、ただの詐欺だとわかったら、そのときは遠慮なく文句を言えばいい。\n参考文献\n阿波野巧也(2015)『口語にとって韻律とはなにか――『短詩型文学論』を再読する――」、『京大短歌』21、京大短歌\n石川美南(2014)「世界との距離――五島諭の変遷」、『pool』8、pool\n岡井隆(1995)『短詩型文学論集成』（『岡井隆コレクション』２）、思潮社\n五島諭(2013)『緑の祠』、書肆侃侃房\n堂園昌彦(2014)「世界の多層化とそこで働く意志について」、『pool』8、pool\n永井亘(2015)「超虚構短歌への冒険　――『緑の祠』を中心に」、『早稲田短歌』44、早稲田短歌会\n穂村弘(2011)『短歌の友人』 、河出書房新社（河出文庫）\n――(2013）『短歌という爆弾』、小学館（小学館文庫)\n穂村弘・花山多佳子・小島なお(2014)「作品季評」、『短歌研究』二〇一四年五月号、短歌研究社\n三上春海・鈴木ちはね他(2015)『誰にもわからない短歌入門』、稀風社\nつまりそのスキルを知っていれば「歌人」でなくともそうやって読むことが可能であり、そして穂村はこのような評論を書くことでそのスキルを公開している……と考えることで、穂村は排他的という謗りを免れるだろう。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n永井亘(2015)「超虚構短歌への冒険　―『緑の祠』を中心に」、『早稲田短歌』44、早稲田短歌会、141p\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nこの「あまりに」が重要であるのは、その露骨さが作者が「あえて」やっているということのサインとして機能するからだ。中途半端にしか「語が動く」、交換可能性が見えなければ、それは単に作者が下手であるがゆえの失敗と切り捨てられてしまう。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n『羽根と根』4号でのもの。本企画は阿波野巧也の提案により、ゲストとしてフラワーしげる氏、千種創一氏にご寄稿いただいた。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n阿波野巧也(2015)『口語にとって韻律とはなにか――『短詩型文学論』を再読する――」、『京大短歌』21、京大短歌、139p\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n（詞書：鶴岡八幡宮）\n〈大吉を引けばいいけど引かないと寂しさが尾を引く、でも引くよ〉\nを引用している。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年7月14日","externalUrl":null,"permalink":"/works/critique/koukan/","section":"作品","summary":"","title":"定型における交換可能／不可能性について ――五島諭『緑の祠』を中心に――","type":"works"},{"content":"","date":"2019年7月13日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%89%E3%83%AB%E3%83%9E%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC/","section":"Tags","summary":"","title":"アイドルマスター","type":"tags"},{"content":"THE IDOLM@STER CINDERELLA GIRLS STARLIGHT MASTER 29 クレイジークレイジー\n作詞：BNSI（MCTC）\n作曲・編曲：BNSI（Taku Inoue）\nサウンドが最高なのは自明なので歌詞の話をします。\n「ラストのI love you」を最初に言うというのは明らかに「ありきたりなロマンス」の骨法を破っているし、その後「壊れそうなキスしたまま映画が終わる」ときたら、そんな映画はショートフィルムとしてすら成立することは困難だろう。フィクションの公式というのが要するにひとびとの了解で成り立っている以上、そこは社会的に承認される欲望の範囲でもあって、その極限を踏み越えて愛の告白をを最初にしてしまう存在は、「クレイジー」という指弾を免れることはできない。「きみと空飛びたい」にしても。\nだからこの曲を激しい感情によるものにしろ、あるいは生来のものにしろ、凡人の道理を外れてしまった人間の悲哀ならびにそのうつくしさ、と捉えることは簡単だし、作中世界においては、歌唱者二人のイメージからしても、そういった方向性で説得力を発揮していそうな気はする。1けれどもメタな立場にいる人間としては、その手の見方には抵抗したいとも思っていて、この曲からそれなりに多くの人が引き出すだろう「百合」というモチーフ（まあ「女性」が二人で恋愛の歌を歌っているからすなわち「女性同性愛」だ、という順接も相当に危ういと思うが、我ながら）がまさにそうなりがちであるように、タブーであるから美しい＝承認されるためにはタブーであり続けることを要求される、という構図は端的に言って残酷だし、非道だ。たとえギフテッドだろうとサイコパスだろうと、どんな欲望を抱いていようと、それのみをもって断罪されるべきではない。\n走るヒーロー\n優しくて勇敢で素敵なんだ\nきみの方がね\nを私は「素敵なんだ」のみが「きみの方がね」にかかっていると読んでいるけれど、いかにも社会的に「素敵」とされる理由がたくさんあり、そもそも自明に素敵な存在として承認されている「ヒーロー」よりも、無冠の「君」のほうが素敵なことだってありうるし、そこには何の理由もなくたってよいのだ、この曲での展開の唐突さのように（しかしここの急旋回、ドライブ感は何度聴いてもすごい）。\nMCTC氏の歌詞は「旅に出がち」「何かを探しがち」「今夜がち」と作曲家兼専属マネージャーのTaku Inoue氏も指摘している。2他の頻出語の「宇宙」「星」と合わせ、「ここではない場所への憧れ」というモチーフがこのあたりの語に象徴されているのだと思う。\nとはいえワンパターンかというとそんなことはない。定番**「ユー・アー・リスニング・トゥ・レディオ・ハッピー」（『Radio Happy』）や「世界はもうぼくらのもの」な『そしてぼくらは旅に出る』、極めつきは「どんな永遠も全部過去にして君を連れ出してあげる」（『Light Year Song』）とまで言い放つユーフォリックな歌群もあれば、「君がもしその手を離したら／すぐにいなくなるから ／手錠の鍵を探して　捕まえて」「流れ星を捕まえて　この足に縛ってよ」と、まるでお互いを自分だけのものにするためだけに宇宙を求めるかのような『Hotel Moonside』、「明日にならないパーティー　ある気がしてた」けれど「もうタイムアップ　朝だから」挫折する『99 nights』（美希のソロが最高）、そして「ここ」にいたまま「ここ」の住人ではなくなってしまう『クレイジークレイジー』。\nときに曲全体でのストーリーの構築に寄りながら、そういった場合でも細部のフレーズにもキャッチ―さやかがやきがちゃんとあって、決して全体に奉仕するものにとどまっていないところもよい。『Honey Heartbeat』をカーセックスの歌だと思おうとそれが叶わず失恋したと受け止めようと、「今何時？　んー0時かあ／シンデレラはベッドで寝る時間／だけど３つ数えてヒミツ作ろう」の怪しさや「シート倒したらねえ、you see？／Gimme君のＡtoＺ」の格好良さに変わりはないし3。\n今更言うまでもないけれど韻もキレキレだし。個人的には**「サーフボードの上　真夏の夜の夢」「眠るハイビスカス　愛に気付かず／君の手まで果てしないディスタンス」**（Pon de Beach）が最高だと思います。\nあくまで歌唱者というバイアスがかかったときこの曲がどう受け止められるかの話であり、歌唱者＝志希・フレデリカがどういう存在だと思われているか、どういう存在か、ではない\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nMCTCの歌詞、旅にでがちだし、何かを探しがち\n\u0026mdash; TAKU INOUE (@ino_tac) October 31, 2018 あと、今夜がち\n\u0026mdash; TAKU INOUE (@ino_tac) October 31, 2018 \u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e; しかしおそらくMCTC初登場でTaku Inoueが関わっていないこの曲の歌詞が一番はっちゃけている気がする。またこういうの（性的なものという意味ではない）書いて欲しい\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年7月13日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/07/13/175254/","section":"ブログ","summary":"","title":"一ノ瀬志希、宮本フレデリカ『クレイジークレイジー』、あるいはMCTCの歌詞について","type":"posts"},{"content":"","date":"2019年7月13日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E9%9F%B3%E6%A5%BD/","section":"Tags","summary":"","title":"音楽","type":"tags"},{"content":"","date":"2019年6月28日","externalUrl":null,"permalink":"/tags/%E6%80%9D%E6%83%B3/","section":"Tags","summary":"","title":"思想","type":"tags"},{"content":" ニック・ランドと新反動主義　現代世界を覆う〈ダーク〉な思想\n面白かった。書籍のタイトルに掲げられているのは「新反動主義」だけれど、最終章のタイトルである「加速主義」のほうが読みどころだし、語としても意味を想像しやすくキャッチ―だと思う。（新反動主義者／右派加速主義者が敵視するような）「リベラル民主主義的な〈カテドラル〉のイデオロギー」の信奉者に対しては「反動」という単語が挑発的、刺激的だから、という判断からだろうか。そうだとしてもその層がどれほどこの手の本を買うかは疑わしい気がするけれど。 1章・2章の新反動主義のあたりはどちらかというと現代の政治をどうにかしよう、あるいはどうにかするよりそこから脱出しようという話で、しかしその割に実現性が乏しく感じられて（トランプだって新反動主義的政策はとってないじゃん）、勉強にはなるけれどそんなに面白くはない。一部アメリカ人は本当に無条件に自由が好きだなあ、という雑な印象。大きな政府の福祉国家が自由を制限するから駄目と言われても、私は超人になってまでサヴァイブしたくないし、国家をうまいこと利用してだらだらやっていきたいと思ってしまう。新反動主義者にはそういうやつを生むから福祉国家は駄目なんだ、と言われそうだが。\n3章は加速主義に至るまでのニック・ランドとその周辺の紹介。ランドやその周りの人間がめちゃくちゃなことをやりまくっているのが単純に面白い。\n睡眠を取らず、使い古したアムストラッド社製のパソコンのモニターを一日中凝視しながら、奇怪な数字の配列やシンボルをを延々といじくりまわしていた。この時期のランドの実験にはたとえば、QWERTYキーボードとカバラ数秘学を組み合わせるというものがあった。人間的な理性を超越した非－意味に基づくアンチ・システムだけが〈未知〉＝〈外部〉への扉であるという確信。\nとか、よく即刻大学クビにならなかったな。\nあまり本筋というわけではないけれど、ランドが初期に戦闘的フェミニズム（筆者も指摘しているように具体性を欠いているが、「我々は自身の只中に新たなアマゾーンを育てなければならない」という文から大まかなニュアンスは推測できそう）に可能性を見出していた点や、サイバー・フェミニズムと接続していた点は興味深い。とはいえ後にその主題が後景に退いていったという記述を見ると、結局（乱暴に言えば）「現状を破壊してくれる道具」として期待していただけでは？　という気もしてしまう。\n章末で少しだけ言及されている中華未来主義も興味深い。サイバーパンクを現実に投影したうえで、それを本気でユートピア（厳密にはそこへの回路だろうが）として見る態度。これは日本からは出てこないだろうなあ、と思う。単純な嫌中感情の問題だけではなく、そもそも日本もまた「〈カテドラル〉のイデオロギー」が欧米ほど根付いていないという意味で。 4章、問題の加速主語の話は、個人的には未来派にもロシア宇宙主義にも多少馴染みがあることもあってか1、また極限状況において決定的な変革が起こる（し、そうでなければ起こりえない）という発想もマルクスにしろ外山恒一にしろ当然のものだし、それほど突飛にもダークな思想とも感じられなかった。とはいえシンギュラリティ状況における変革のビジョンは、負荷に耐えられなくなった人々のエネルギーが起こす／後押しするというものではないから、安易に『共産党宣言』を援用するのはどうなのかと思う。それよりは未来派における戦争に近いのだろうけど、第一次世界大戦は未来派の期待したような変革を果たして起こしたのか、あるいはシンギュラリティが到来するとして、それは世界大戦／総力戦ほどの衝迫力を人々に大して持つのか2、などと考えると怪しげ。\nいちばん万人向け？　だと思ったのは資本主義リアリズムの話。「哲学者スラヴォイ・ジジェクのものとされる『資本主義の終わりより、世界の終わりを想像するほうがたやすい』というフレーズ」は私の乏しいジジェク知識でもいかにも言いそうだと思うが、まあこの書き方からして出典が怪しいのだろう。ともかく言われていること自体は非常に納得できる。「大きな物語の終焉」などというのはもはや手垢がつきすぎた表現だけど、少なくとも西側諸国において崩壊したのは「資本主義という現実に対抗するビジョンとしての大きな物語」であって、資本主義（ついでに民主主義も）という物語はまるで終焉なんてしていない。「資本主義が人々に幸福をもたらす」ということがもはや信じられなくなったとしても、それは資本主義という物語が「絶望の物語」に変わっただけで、崩壊したわけではない。共産主義はユートピアを提示するものとして受け止められていたから、人々に幸福をもたらすと信じられなくなった時点で崩壊せざるを得ない。しかし資本主義はむしろそのユートピアに対してシニカルな、「現実的」な立場に支えられている3のだから、たとえそれが幸福をもたらすことがないとしても「現実は難しい」「文句があるなら代案を出せ」で片付けられてしまう。 ** 「資本主義の問題は、それが機能不全でありながらも現実に機能してしまう点にこそある」**というのは、まさに、といったところ。資本主義リアリズムについては本書で言及されているマーク・フィッシャーの書籍が邦訳されている（上の怪しいジジェクの引用もフィッシャーのものだという）のでいずれ読んでみたい。 資本主義リアリズム 増補版 加速主義という新たなユートピア思想が「大学院生の病」であるという指摘は最近まで院生の端くれだったものとして正直笑ってしまうが、「加速主義は鬱病に効く」と言われると切実にも感じる。同じ加速主義でも前者は右派、後者は左派についての言葉だけれど、まあ大学院生がメンタルをやられやすい立場であるのはたぶん事実だ。\n個人的にはトランスヒューマン／シンギュラリティよりは宇宙進出に希望を見出したい。マインド・アップローディングしたところでそのコンピュータを地球にしか置けないのなら地球が吹っ飛んだらおしまいじゃん？　どうせトランスヒューマンするなら宇宙（移住先）に適応しようよ。「広がって、地に満ちよ」（Key『rewrite』）。 終盤のヴェイパーウェイヴをはじめとする音楽の話はこれだけでもう一章欲しいくらい。ちょうど最近訳あってヴェイパーウェイヴをちょっと聴いていたのだけれど、参考にしたものの一つが同じ筆者のこの記事だった。本書の記述ともかなり共通している。それがそのまま右派加速主義者／オルタナ右翼と重なるかはともかく（ヴェイパーウェイヴの主流はランドよりもむしろ、上述のマーク・フィッシャーの左派加速主義のビジョンに重なると筆者は指摘している）、いわゆる「レトロな」、過去においてありふれていた音楽、文化に惹かれる欲望の裏に、未来への絶望があるというのは綺麗すぎるほどに筋が通った理屈だ。日本のシティポップが海外で流行っているという「日本スゴイ」的文脈に回収されている現象も、以下のような理由があると考えるとかなり皮肉だ。\nもはや、アメリカの若い世代は自分たちの過去の記憶に純粋なノスタルジアを感じることができなくなっている。その代わり、日本という他者――自分たちが経験したものではない時代と場所の記憶に、ある種の新鮮で穢れていないノスタルジアを求めているのだという。シティポップの全盛期である80年代といえば、日本はバブル景気に湧き、アメリカには安価な日本製品が大量に流入してくるなど、日本のプレゼンスが否応にも高まっていた時期に当たる。\nスゴイのは過去の、それこそアメリカすら圧迫するレベルで資本主義が人々に幸福をもたらすと信じることができていた日本であり、今の日本ではない。「中華未来主義」だって「ジャパン・アズ・ナンバーワン」が取って代わられたものとも言えるし。\n私はいわゆるミレニアル世代に属していて、シティポップ（的なもの）はわりと好きだけれど、その時代に郷愁を抱いているつもりはない。男女雇用機会均等法もなかった時代が今よりマシとは思えないし。とはいえ未来に希望を抱いているかと問われれば答えに窮する（いや答え自体はほとんど決まっているけれど、だからこそ窮するのだ）し、本書のラストで引用されているティールの発言には思わずうなずいてしまう。\n「たとえトランプに懐古趣味や過去へ戻ろうとする側面があったとしても多くの人々は未来的だった過去へ戻りたいと思っているのではないでしょうか。『宇宙家族ジェットソン』、『スター・トレック』、それらは確かに古い。だけどそこには未来がありました」。\n『スター・トレック』はティプトリー・Jr.「ビームしておくれ、ふるさとへ」でしか知らないけれど。 私がどうしてもアンチ星海社なことを差し引いても4、デザインは正直ダサいと思う。本当は参考文献以降のような黒地に白抜き文字に全篇したかったのを妥協したのかなと邪推。\nカントやベルクソンに？？？　となっていたのに、マリネッティやフョードロフやソロヴィヨフで「あ！これ進研ゼミでやったやつだ！」となるのも我ながらどうかと思うが\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n衝撃を与える人間の数、あるいは全人類のうちの割合は当然WWⅠをはるかに上回るだろうけれど、反面WWⅠほど突然起きたものとしては感じられないのではないか\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\nもちろん理念としての自由を信奉している人もいるだろうけど、「共産主義は結局みんなが貧しくなるだけ」という見方から消極的に資本主義を支えている力はとても強いと思う\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n牧村朝子『百合のリアル』や原田実『江戸しぐさの正体』のような良書も出しているとはいえ、倫理的に許しがたい本や看板に偽りありの本や編集やる気あんのかという本の印象が悪すぎる。大塚英志『日本がバカだから戦争に負けた』とか、期待してたのに……。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年6月28日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/06/28/175258/","section":"ブログ","summary":"","title":"木澤佐登志『ニック・ランドと新反動主義』","type":"posts"},{"content":"前の記事のような話をするとじゃあお前のルーツはどこなんだ、お前はなに歌人なんだ、名乗れ、と言われるかもしれないけれど、これがなかなか答えづらい。\n小学生のときはそれなりに読書家だったけれど、中高の在学中はろくに本を読んでいない。映画や演劇を自発的に観たことはたぶん一度もないし、美術館に行くこともなかった。アニメはオープニングしか観ず、ゲームやポップ・ミュージックの摂取量も同世代の平均を大きく下回るだろう。吹奏楽部に入っていたとはいえ、その練習態度はだいぶ面の皮の厚い私でも今思うと少々赤面しそうになるほど不真面目だったし、それが血肉になっている気はまったくしない。そもそも私にいわゆる自我のようなものが芽生えたのは高校をやめた後のことだから、それより前の経験が反映されている可能性は低そうだ。 結局のところ、私はいかにも無用な混乱を招きそうであっても、この肩書を名乗らないといけないのかもしれない。すなわち、「インターネット歌人」だ。今使われている「ネット歌人」という語の暗黙的定義には当てはまらないだろうし、繰り返しになるが混乱を招くだけだろうから敢えて主張することはないけれど。それなりに公的なプロフィールを書くときは、大学短歌会で作歌をはじめる、と書いているし、実際まともな作品を作るようになったのはそれ以降だから間違いではない。\nとはいえ私が短歌に興味を持ったきっかけはたまたまTwitterでフォローしていた人たち（奇しくも、と言うべきか、現在では稀風社の同人としていわゆる伝統的な歌壇にも接続している@suzuchiuと@kmhr_tだ）がツイートしていた短歌なのだから、私は自分のことをやっぱり「インターネット歌人」だと思っている。\n初めて買った歌集は遠野サンフェイス(@sunface)というTwittererの『ビューティフルカーム』だった。リンクを張ったのは電子版だが、物理版は表に短歌、裏に写真が（あるいは逆かもしれないが）が印刷された紙たちを単語カードのようにリングで留めた洒落たもので、まだ蒲田でやっていた文学フリマで私はそれを手に入れた。\n当時のカタログを確認すると、伝統的歌壇と接続している、その後私が関わることになるような人たち、先輩たちも出店していたことが分かる。しかしその比率はまだ低く、短歌島自体が今と比べるとかなり小規模だ。そのあたりのことはまた記事にして考えてみたい。\nだいぶ話が逸れたけれど、私が自身のことを「インターネット歌人」だと思っているのは、単にそこで短歌に興味を持ったからというだけでなく、他の歌人にとっての第一表現形式にあたるものが、私にとってはインターネットという、そこにいる人たちが送る人生や生産する文字情報というコンテンツだったように思うからだ。正確にはインターネットのうち、TwitterというSNSの片隅の中退者や不登校や、ナーバスな高校生や浪人生や、うだうだしている大学生や院生や若干の社会人（便宜上の表現）たち、彼女ら彼らのしていたツイートが、おそらく私の短歌のルーツにある。\n今となっては多くはハンドルネームも覚えていない、生きているのか死んでいるのかも分からない、何人かは死んだということをツイートで当時知らされたひとびととの馴れあい（大抵はTwitter、たまにSkype、オフ会）が唯一の対人コミュニケーションだった時期は、社会的に見れば私の人生で最低の時期だろうし、医学的に見ても最悪の精神状態だったことは間違いない。けれども語弊を恐れずに言えば、私はそのどうしようもなさを楽しんでいたし、それまでの人生のもろもろの経験よりもはるかに意味のあることに感じていた（自我も手に入れたし）。そしてそこから去ることを残念に感じたし、去ったことそのものと残念に感じたことの双方に傲慢な罪悪感を今でも覚えている。他はともかく、私のような中退者や不登校のうち、社会的にそれなりに認められる場（要は偏差値の高い大学だ）に移行することで去れたものはそれほど多くなかったかもしれないし、私がそうできたのは努力の成果などではなく、嫌になってやめたはずの学校で叩きこまれていた受験テクニックのおかげにすぎない。\n飽き性な私がなんだかんだ長い間短歌をやっているのは、他人から見れば何も得ることがなかったと言われそうなあの時期に、得たものがある、ということを主張し続けたい面もあるのかもしれない。作品への実際的な影響は、大学以降に短歌の世界やそれ以外の世界で知り合った人たちからのものがほとんどで、その交流はまっとうに楽しかったけれど、それだけで私の短歌を塗りつぶしたくない。わざわざこんな文章を書いてしまうくらいには。まあそもそも私のとっての短歌は自己表現というわけではあまりないけれど。\n偶然に入学した大学の短歌会に入って、短歌を作っている生身の人間と初めて会ったとき、今どき短歌なんてやっている若者は全員Twitterがきっかけだろうと思っていた。実際はぜんぜんそんなことはなく、寺山修司や俵万智や穂村弘や枡野浩一の本や、教科書がきっかけだという人が多かった。私は『ラインマーカーズ』が通っていた精神科の待合室にあったから読んだだけで、ISBNコードがついた短歌の本は他に一切知らなかった。教科書なんて中学以降は開いたこともないから、誰の短歌が乗っていたかという質問にも答えようがない。\n入学後一年近くが経ちだいぶ社会にも慣れたころ、はじめての機関誌に一首評を書くことになり、私は『ビューティフルカーム』のいちばん好きだった歌を選んだ。ネット公開されているそれを今読むといかにもロマンチック・ラブ脳という感じで恥ずかしいが、とにかく人生ではじめて発表することを意識して書いた散文だった。\n短歌会では一首評／評論で扱った作品の著者が存命である場合はその評者が挨拶状を書いた上で謹呈し、送付先が分からない場合は自ら連絡を取って確認することになっていた。遠野サンフェイス氏はもちろん短歌年鑑の住所録には載っていないし、結婚した（もちろんツイートによれば、だ）とかでそれ以降ほとんどツイートしなくなっていた。当時はDMをフォロワー外から受け取るなんて設定もなかった。住所を聞くのも、謹呈文化も、勝手に書いたものを読んでくれとでも言わんばかりの行動も、いかにもこじらせインターネット界の文化が分からない健康な大学生みたいで嫌だったから、結局連絡を取ることはなく、たぶんあの年は私だけが謹呈をしていない。\n","date":"2019年6月22日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/06/22/015042/","section":"ブログ","summary":"","title":"自分のルーツの話","type":"posts"},{"content":"現代において短歌という表現形式はかなりマイナーだけれども、それゆえに生じているちょっと面白い特徴は、短歌はそれが「第一表現形式」である作者の比率が極めて低い形式であることではないだろうか。「第一表現形式」というのは「第一言語」という概念を援用した造語だが、狭義の創作でも演奏のような再解釈行為でも、あるいは単にひたすら耽溺していただけであってもいいから、幼少期から特に慣れ親しんできた、というくらいに捉えてほしい。\nたとえば小説や漫画や音楽であれば、幼いころからそれに親しんできた末に自分でも創作するようになった、という人は多いだろう。映画や演劇やアニメとなるとあまり小さいころからというわけにはいかないかもしれないが、いつかはその作者になろうと心に決めている、ということもありそうだ。しかし短歌となると、子どものころからひたすら短歌を読みふけってきてそのまま歌人になった、という例はかなり希ではないか。例外としてありえそうなのが親（あるいは親族）が歌人であるいわゆる二世、三世歌人だけれども、インタビューなどを見ると彼女ら彼らですら必ずしも幼いころから短歌に親しんでいたというわけでもないらしい。\n加えて短歌を作るハードルは他のほとんどの形式に比べて低い。自由詩ほど長く書かなくてもよいし、俳句みたいに季語を覚えなくてもよいし（どちらのジャンルも第一表現形式としている人の数は短歌より多そうだが）。若者の表現行為などというのはたいていは「俺の歌を聴け」的な欲求に裏打ちされているものだとすれば、それを実現するためには俳句より短歌のほうがいろいろと手っ取り早そう、というのもあるかもしれない。\nその結果として短歌の世界は、漫画やアニメや演劇や写真やガラス細工やロックやヒップホップや小説（は大勢力だろうから日本文学／海外文学／ミステリ／SFなどと細分化できるかもしれない）や、とにかくありとあらゆる表現形式にルーツをもつ作者たちの坩堝となっている。あるいはサラダボウルかもしれないが。そして漫画歌人やアニメ歌人や演劇歌人や…（中略）…たちのルーツは、狭義の創作行為をしていたか否かに関わらず、その短歌作品にどこかで反映されているような気がする。\n","date":"2019年6月22日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/06/22/014706/","section":"ブログ","summary":"","title":"歌人のルーツの話","type":"posts"},{"content":"13・67 上\n香港警察の「天眼」と呼ばれる名探偵、クワンを主人公にしたミステリ。香港の動乱に関係して、というわけでは特になく、たまたま少し前から読んでいた。警察官が作中で名探偵と呼ばれているのはやや珍しいのではないか。後述するように、クワンの推理法はいわゆる警察官らしい地道な捜査というよりは、まさに「名探偵」的なもので違和感はないけれど。中国では私立探偵は違法だそうだが、香港の作家による・台湾で最初に刊行されたこの作品には関係あるのだろうか。\n個々に完成度の高い短篇を並べて全体で優れた長篇に、というのは言うは易く行うは難しの典型だけれど、この作品ではクワンの強烈なキャラクターによって全体が貫かれることでそれが実現されているように思う。高い推理力は探偵役の前提として、クワンの個性はその凄まじい、と言って良い（日常の態度はそうは見えないものの）正義感だ。\n冒頭で「ルールを守るだけでは、事件など解決できない」と宣言されるとおり、名探偵たる警官は通常の手法では捕まえられない犯人を追い詰めるため、明らかに違法だろうという捜査を連発する。これはフィクションであり、ついでに言えば名探偵の推理は絶対に間違っていないというタイプのもののようだからともかく、リアルに考えると相当に恐ろしい。 とはいえこの小説は単純に現実にそういうヒーローの出現を望むというよりは、むしろ現実にはいない、いてはいけない存在であるということを前提にしたうえで、それでも望まずにはいられない、という痛切さがかたちになった作品のような気がする。「これまで台湾人作家の作品を読むときによく感じていたことだが、香港人作家である彼もまた、とても実直に、テーマのために小説を書く」という訳者あとがきは、少なくともこの作品にはとてもしっくりくる。訳文も読みやすかったが、訳者は若くして亡くなっているという。悲しい。 特に好きだった篇は「クワンのいちばん長い日」と「借りた時間に」1。前者はミステリとして、後者は単純に小説としてという感じ。\nクワンの推理は概ね、ごく早い段階で論理的な推理により仮説を立てる→裏付けとなる証拠を探す（場合によっては捏造する）→犯人を名指す・真相が明かされる、というもの。正直超人すぎる。真相が明かされる時点ではたぶん情報はフェアに提示されているのだろうけれど、その段階で解けたとしてもあまりカタルシスはなさそう。 クワンの推理の傑出したところは「仮説」を立てる構想力にあるので、読者が彼に伍そうとするならば彼が真相に直結する仮説を立てた時点で同様のそれに至っていないといけない。それより後、クワンが仮説のための証拠を集め始めた段階で真相に気づいても、それは「謎が解けた」というよりはせいぜい「クワンのやりたいことが分かった」という印象。そもそも仮説を立てた時点は彼自身が真相を明かすまで分からないし。 まああまり考えずにクワンの超人っぷりを楽しめば良い気もする。\n小説で歴史を勉強した気になる、というのはよろしくないと思うけれど、1967年の反英暴動などはそもそもそれ自体を知らないかったので結果的には良かった。文革や1968年革命に関係するものとして考えてよいのかな（この本のタイトルも『19・68』と間違えそうになる。革命史観なので……） 昨年あたりから植民地というものについてよく考えているけれど、租借地という一定期間後に返還することが決まっている（借りた側に条約締結時点で本当にその気があったかはともかく）「Borrowed Place」の特質も気になる。「香港島と九龍半島はイギリスに割譲された領土であったが、ニューテリトリー（新界）は『租借地』であり、一九九七年にその期限が切れる。とはいえ、イギリス政府がそのとき、香港島と九龍半島の統治権を保持したまま、ニューテリトリーだけ中国に返還することは考えられない」（「借りた時間に」）という記述にある「考えられない」という状況はどのように生まれたのだろう。 土地勘がないせいが大きいと思うが、地理的な感覚はかなり掴みづらかった。巻頭に地図は付されているが、もう少し詳しいものが欲しかった。せめて主要な道路や航路くらいはあると有難かったのだけれど。\n以下ネタバレ、というか読んだ人にしか分からない話 最終篇、「クワンは誰か」というのは割と容易に推測できると思うけれど、「そうでない彼」があの人物であることは（他の篇も含めて）どこかに推理の根拠となる記述があったのだろうか。いずれにせよ、最後の数ページはちょっと泣いてしまった。\n原題「Borrowed Time」がこう訳されているけれど、「借り物の時間」のほうが良い気もする。Twitterで見た意見の受け売りだが。「Borrowed Place」→「借りた場所に」も同様\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2019年6月15日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2019/06/15/154858/","section":"ブログ","summary":"","title":"陳浩基『13･67』","type":"posts"},{"content":"※『早稲田短歌』46号初出評論を元に、一部加筆・修正した\nＡ # それで女の歌人には、女は女でやっとけみたいなところがあるじゃないですか。一方、正史としての短歌史はこう続いています、となる。やっぱり男の人は基本的にそういう流れのなかに女の人を入れないんですよ。サブで入れたりはするんだけど、あくまでサブ。いま「何言ってるんだ、自分はちがう」と思った男の人は短歌に関しての自分が書いた文章なりツイッターなり心のなかの考えなりのなかで男女の名前の比率なんなりを一回きちんとカウントしてみてよ1\n瀬戸夏子のこの発言を読んで、痛いところを突かれたと思ったことをまずは正直に告白しておかなくてはいけない。短歌の世界におけるジェンダーについての、瀬戸曰く「ちょっとひどすぎる」現状には私も苛立ちを覚えているのだけれど、自分もまたいかにも「男の人」的な失敗をしてしまっていたようだ。\n「正史としての短歌史」から女性が排除されている、ということについて考えるとき、まず私の頭に浮かぶのは前衛短歌のことだ。正確に言えば、前衛短歌ではないとされる作者たちのことになる。\n葛原妙子・山中智恵子・森岡貞香・中城ふみ子・馬場あき子などといった、戦後に活躍した女性歌人たちは、一人の歌人としてはそれぞれに高い評価を受けているように思える。少なくとも近代短歌における女性歌人のほとんどが、もはや「近代の女性歌人」そのものについて語ろうとする際にしか語られなくなっていることと比べれば、大きな差があると言ってよいだろう。\nしかしそれでも「前衛短歌の三雄」は塚本邦雄・岡井隆・寺山修司だ（「雄」なのだからしょうがない？　いやいや……）。個々の作者や作品に対する評価と、その歴史上における、言うならば存在意義に対する評価は一致していない。\n彼女たちのそれぞれを、なぜ「前衛短歌」に含めるべきではないかについての論は存在するし、そのなかには作家論として納得できるものもある。「前衛短歌」の時代に活躍しながら、なかなかそこに含められない作者は男性にもいる。それでも、前衛短歌のせいぜい第四人者（であればまだましなほうだ）として葛原の名がいかにも「女流の例」といったように挙げられ、それ以外は当然のように無視されるとき、阿木津英の言うように、女性歌人たちが「突然変異の大輪としてひとりやふたりなら特別席を用意せぬでもないが、かわりに、女性は自分が何をつくっているのか自覚がない、方法意識がないなどという理由をもって棚上げされ、一方特別席に坐りそこねた多くの女性歌人たちは、個々の歌人としてではなく、（女性歌人）として括られ2」ているのだ、と思わずにはいられない。\nここでいう方法意識とは新しいパラダイムを作りだそうとする意識であり、歴史、具体的には先行する作品や歌論に対する関心を前提とするものだ。方法意識を持ち、歴史を進展させるのはあくまで男性であるという思い込みが、女性歌人を同時代の男性歌人のバリエーションという扱いにとどめている。「女流」という言葉を文字通りにとらえれば、そこに表れているのは主流とは異なる流派であるという認識だ。男性歌人の女性歌人への影響はもちろん語られ、女性歌人の女性歌人への影響も「女流」の名のもとにまた語られるけれど、女性歌人の男性歌人への影響についてはなかなか語られることはない。それが存在しないはずはないのに。\nしかし八〇年代に入り、ようやくそういった状況が打破されるときが来たかのように思われる。俵万智は「正史」において、口語短歌の第一人者として扱われているのだから。短歌史において何らかの第一人者とされていると言えそうな女性歌人は、ほかには与謝野晶子くらいのものだろう。その晶子にしても、先行する理論家としての与謝野鉄幹の存在を背後にちらつかされることで、はじめてその扱いを許されているようにも思える。\nしかし本当に、短歌史が長い呪縛から完全に解放されたと言ってよいのだろうか？\n短歌の口語化を推し進めた世代は、大きくライトヴァースとニューウェーヴの二つに分けて呼ばれている。『岩波現代短歌辞典』ではライトヴァースの歌人の例として、中山明、仙波龍英、林あまり、俵万智、加藤治郎の五人が挙げられている。一方、同辞典によれば「ニューウェーヴ三羽烏」は加藤治郎、荻原裕幸、西田政史である。西田が作歌を中断したのち、その位置は穂村弘が占めただろう。\n早くに作歌を中断した（それゆえに歌壇におけるエコールや権力関係からは遠くなった）中山と仙波を除いた三人のライトヴァースの代表的歌人のうち、男性である加藤のみがライトヴァースからニューウェーヴに編入されている。ニューウェーヴを代表する歌人とされるのが全員男性である一方で、ライトヴァースには俵と林という女性だけが取り残されたことになる。\n俵と与謝野晶子の評価のされかたには多くの共通点がある。林あまり／山川登美子という女性がライバルとして対置されることもそうだけれど、作品が持つ「あたらしさ」がもっぱら新たに訪れた時代を、鋭敏な感性（そこにはすぐに「女性らしい」という形容がかぶせられる）によって反映したものだとされることもまたその一つだ。晶子なら近代、俵ならバブル期という時代を反映しているという評価は、それ自体が肯定的なものだったとしても、往々にして作者の短歌史という歴史（ここでの時代と歴史の区別は、時代小説と歴史小説の区別と同じであり、時代とはすなわち没歴史的なものだ）に対する意識、方法意識の存在を等閑視することにつながるし、むしろそれが欠如しているという批判とほとんどと表裏一体と言ってよい（まさに「突然変異の大輪」――ところで阿木津は俵を、まさにこのような論によって批判している3。それが「女性だから」という理由ではないとしても）。\n現代においてライトヴァースとニューウェーヴをあえて区別して語ることとは、すなわち「方法意識を持たず、時代に対応して自然に口語で作歌していた女性歌人」「明確な方法意識に基づいて口語短歌を理論化した男性歌人」という構図を作りだし、俵や林を後続のニューウェーヴから排除し、そのバリエーションという扱いに押し込める ことなのではないか。\n俵が方法意識をもたずに、ただ時代に対応しただけで革新的な作品を作り上げた、とは私には思えない。ライトヴァース・ニューウェーヴと八〇年代、バブル期という時代の雰囲気の関係は、その当事者たちをはじめとする多くの人が強調しているけれど、ことを口語化という現象に限るとある疑問を抱く。散文においては、言文一致はずっと以前にすでに定着していたではないか。時代の雰囲気説は、口語短歌がこの時期に定着した理由の説明としてはもっともらしく聞こえても、それ以前に定着しなかった理由を説明していない。\n俵に歴史への意識が存在したことは、たとえば佐佐木幸綱の指導のもとで作歌をはじめたことや、あるいは村木道彦を愛読していたといったしばしば語られるエピソードによって裏付けられるはずだ。しかしそれにしても――佐佐木幸綱も村木道彦も、ああ、またしても「男」だし、エピソードはむしろ、「あの俵万智に影響を与えた」というように、佐佐木や村木の偉大さを称揚するためにばかり紹介されているように思える。\nなんだか言い訳めいてしまうけれど、すでに書かれて、語られてそこにある「正史」が、思考を規定し、抑圧する力はとても強い。あるひと（その性がどのようなありようであったとしても）が短歌史について書くとき、女性の作者が含まれていない、あるいはサブ的なものにとどまっているとしたら、その理由は個人のセクシズムによる場合もあるだろうけれど、むしろ既存の「正史」に書かれていなかったために、それ以前の／以後の、あるいは同時代の作者とどのように関係しているかという線をうまく引けないためという場合も多いのではないのだろうか。\nもちろん無自覚であったとしても差別的であることには変わりがなく、歴史について書くにもかかわらずその程度の批判意識が欠如しているのは問題だ、という批判はもっともだし、そもそも男性中心に書かれた「正史」の枠組み自体を問い直さずに、女性を書き加え、「前衛短歌」や「ニューウェーヴ」である、男性の歌人と同等の存在であるなどと認定しても根本的な解決にはならない、というのも極めて真っ当な意見だ。しかしそれでも、とりあえず「正史」を女性歌人のしっかりと書かれたものにしておくことは、差別の再生産と呼ぶべきサイクルを止めるために、まずは行うべきことだと思う。\nＢ # ところで俵には歴史への意識が存在し、その作品の「新しさ」は方法意識のもとに実現されたものだったはずだ……というようなことを書くと、それに続けてだから俵はえらい、歴史にしかるべき形で書かれるべきだ、というふうにうっかり筆を滑らせてしまいそうになるけれど、しかしここで立ち止まって問い直さなければならないのは、仮に歴史を十分に知らず、方法意識を持たずに作られた「あたらしい」作品があったとしたら、それは歴史に書かれるに値しないのか、ということだ。\n二〇〇〇年代の前半に穂村弘が提出し、半ばジャーゴンと化した「棒立ちのポエジー」「修辞の武装解除」という批評用語に該当するとされた作品、またその作者への毀誉褒貶は激しくとも、当時新設された（そしてどれも限られた回数で終わった）いくつかの新人賞をはじめとする方法でとにもかくにもデビューした新人たちは、一つのムーブメントを作ったはずだ。\nしかしそれらの賞のことごとくで選考委員を務め、新人たちを送り出した穂村自身が『短歌という爆弾』の文庫版に増補されたインタビュー4において、「八〇年代の口語」の次のパラダイムシフトを達成しうる歌人として名を挙げるのは、「鬱屈とした時代感情を持つ男性作家」と呼ぶ斉藤斎藤と永井祐だ5。この主張には斉藤・永井の登場まではニューウェーヴ世代が作ったパラダイムの支配が続いている、という前提が必要であり、すなわちおおむねその間に登場した「棒立ちのポエジー」の作者たちはパラダイムを更新していない、という認識がここに表れている。\nあれほど注目していたはずの、しかも少なくとも個々の作品や作者のレベルでは間違いなく肯定的に評価していた「棒立ちのポエジー」の作者たちを穂村が無視した理由は、同じインタビューにおいて、ニューウェーヴ世代とその後の世代の歌人との差として「短歌というジャンルにおける『革命』のイメージ」の有無を指摘したことに表れている6。革命、つまりパラダイムの更新は、それを行おうという意図を持つものによってのみ達成される、と穂村は考えている。\n「棒立ちのポエジー」がパラダイムを更新していない、という認識が穂村だけのものではないことは「ポスト・ニューウェーヴ」という言葉が未だ歴史上のものとなっていない、つまり斉藤・永井や、あるいは更に若い世代の作品を指すために用いられていることからも端的に分かる。加藤治郎はニューウェーヴ世代が短歌史上のエポックである理由は、それが「近代短歌の残された最後のテーマ」である口語化と大衆化を達成したことで、短歌史が「革新という近代の原理から自由になった7」からだとしているけれど、既存のパラダイムを更新し、短歌を革新していく歴史は既に終わっているという認識に立つ限り、その後にありうる短歌はその都度の時代に対応して修正が加えられたニューウェーヴのマイナーチェンジでしかありえない。\n例に挙げられた作者の大半が女性だった「棒立ちのポエジー」の歌人たちにはパラダイムを更新しようという意識がなかった、というのは偏見ではないか、と思う。例外の一人だった永井祐が、のちに少なくとも穂村の認識において「棒立ちのポエジー」から外れ、その下のより歴史に対して意識的であるとされるグループに編入されたことからは、ライトヴァースとニューウェーヴの関係における加藤の事例を想起させられる。先行した女性歌人たちには方法意識がなく、後続の男性歌人によってはじめて理論化が行われた、というような史観も共通しているのではないか。\nしかしもっと根本的な問いは、この節の冒頭で述べたとおり、そもそも「パラダイムの更新は、それを行おうという意図を持つものによってのみ達成される」という前提が正しいのだろうか、ということだ。\n穂村が「棒立ちの歌」「修辞の武装解除」という語をもって示したものは、自分たちニューウェーヴ世代をも含む先行世代と根本的な短歌観を共有しない世代の登場への困惑 である。そのような現象が事実として起きたのならば、それは当人たちの意図などもはや関係なく、まさにパラダイムの転換と呼ぶべきもの以外の何物でもないのではないのだろうか。\n［2016］「瀬戸夏子ロングインタビュー」、『早稲田短歌』45、早稲田短歌会、27頁。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n阿木津英［1992］『イシュタルの林檎』、五柳書院、8-9頁。なお瀬戸の『短歌』2017年2月号の時評もこの部分を含む個所を引用している。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n阿木津、115-117頁。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n「爆弾のゆくえ　現代短歌オデッセイ２０００～２０１３」\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n穂村弘［2013］『短歌という爆弾」、306-307頁。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n同上、300頁。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n加藤治郎［2007］「ポスト・ニューウェーヴ世代、十五人」、『短歌ヴァーサス』11、35頁。\u0026#160;\u0026#x21a9;\u0026#xfe0e;\n","date":"2018年6月5日","externalUrl":null,"permalink":"/works/critique/rekishinitsuite/","section":"作品","summary":"","title":"歴史について","type":"works"},{"content":"大阪文フリで購入。『同志社短歌』を入手するのははじめて。\n学生短歌会の機関誌名に大学の正式名称が使われているのは珍しい気がする。他は『早稲田短歌』くらい？　だいたい『◯大短歌』だし。 裏表紙に大学の徽章が入っているあたりに短歌サークルには珍しい強い愛校心を感じる（冗談です）。\n連作 # 将来は犬飼いたいね、犬うんぼくたちはくたくたのままコンビニへゆく ／あかみ「どうせそこそこの幸せ」\n鉤括弧をかければ「将来は犬飼いたいね、犬」「うん」なのだろうけれど、それをかけないことで2つの発話、ひいては発話者間の境界が曖昧になっているのがよいと思う。三句で「ぼくたち」という語が出てくることによって2つの発話の発話者は1つに縒り合されるのだけれど、もしかすると最初から「ぼくたち」という1つの存在だったのかもしれないとも感じられる。それはどちらの発話が「ぼく」のものかはっきりさせていないからできることなのだろう。小さな幸せを感じますね。\n連作としてはタイトルもそうだけれどやや不全感に寄っているようにも読めるので、私の感想は明るく取りすぎかもしれないけれど。\nテーブルに垂れゆくような腕をして青年はシクラメンと眠る\n蛇が来てそのまま幹に巻きついたように溺れて斃れる身体\n／田島千捺「へだたり」\nこの2首をすごくBLっぽく感じたのだけれども、1首目に関してはたぶん「少年は少年とねむるうす青き水仙の葉のごとくならびて」 （葛原妙子）を連想したからだ。\n半地下の店からあがる夕方の風に帆となるからだをあゆむ\n「あがる」が終止形か連体形がよく分からないのだけど、そのことによって「半地下の店からあがる」ことと「風に帆となるからだをあゆむ」ことがシームレスに接続している。店からあがってきた人がいつのまにか風を受けてずんずんと歩いているように思えて、わずかに時間を跳躍しているような印象がある。こういう歌はうきうきしますね。\nネクタイを締めすぎている心地して四条河原町大交差点 ／森本直樹「ちいさな湖」\n下句の「四条河原町大交差点」の字面のインパクトは実際の大交差点のスケールに匹敵していると思う。それに比べると上句の字面はいかにも平凡で頼りなくて、まるで大交差点を前にして佇んでいる私のようにも見える。\nペンギン　の　解体　動画　手　を　つなぐ　ふたり　は　鑑賞　する　屋上　で\n／上篠かける「ばらばら」\n眼に薄く水を張らせてあるきつつすべては海市のようなものだろう\n／北なづ菜「お祈りを終えたひとびとのこと」\n「つつ」とつないだ以上この場合下句にも動詞が来ないとおかしいし、おそらく最後に（と思う）が省略されているわけだけれど、書かないことによってこのような想像がただ浮かんだということだけが純粋に伝わってくる。上句と下句の間で舞台が外界から内面に移動している、とでも言えばよいのだろうか。\nところでこの下句は「すべてはかいしの／ようなものだろう」と切れば四句と結句はどちらも8音なのに、なんだか結句のほうがより長い気がする。その差が生じる理由として\n4-4と3-5の違い、つまり句を更に分割したとき後半がより長い部分になるほうが長く感じる 四句よりも結句のほうがより定型への合致が強く期待され、そのために「ような」の段階で残り4音のフレーズを強く想像してしまうから なんてものを考えているのだけれどもどうでしょうか。\nしたり顔で語っているけれど最初「海市」の意味が思い出せなくて調べた。その自分の間抜けっぷりに似つかわしいような歌が何かあったような気がして考えていたけれど、答えは\n言海を海だと思うひとが居て心の中に工場が建つ 山根花帆／『阪大短歌』4号\nだった。私に似つかわしいかはともかく、海市も言海もきれいな言葉ですね。\n作者によって字空けが半角になっていたり、1首だけフォントサイズが大きくなっていたりしたのが目についた。特に半角スペース問題については他の冊子や引用ツイートなどでも頻繁に目にして、個人的にはけっこう気になってしまう。冊子に関しては特記のない限り編集サイドで全角一字空けに統一、とかルールを作ってもよいと思うのだけれど、そうすると編集をする人の手間は増えてしまうかな。\n動物園吟行歌会録 # 京都のやつらはすぐに（京都府立）植物園を歌にしやがって！　と最近言ったけれどこれは動物園。\n身をよじるクジャクの羽根は背を流れ紫陽花を踏んで来た\n／田島千捺\nという歌への評が興味深かった。\nあかみ「あじさいを、踏ん……」\n山田「結句三音じゃない？」\nあかみ「五、五じゃない？」\n山田「五、五、いや七、三？」\n田島「なんで三になるんですか？」\n山田「ちょっとまって、なんもない（笑）」\nあかみ「せめて八、二やで」\n山田「あじさいをふん…あじさいを、ふんできた。ああ、五、五ね」\nあかみ「八、二か五、五だよ」\nここではあっさり否定されているけれど、私も初読のとき七、三に、「あじさいをふん／できた」と句切って読んでいたし、いまでも感覚的にはそちらのほうがしっくりくる。言われてみれば確かにおかしいのだけれど。「踏んで」の「ん」が鍵なんじゃないかとは睨んでいる。\n追記：「〈紫陽花を／踏んで来た〉〈紫陽花を踏んで／来た〉と切らせる文節の力より、〈紫陽花を踏ん／で来た〉と切らせる、定型と「ん」の合力のほうが大きい」からでは、三句までは定型であるし、という意見をいただいた。確かにその通りだと思います。 それまでが定型ゆえに四句も同じように定型であることを期待し、そこにちょうど「ん」という句切りやすい音がくるとそれに飛びついてしまう、という感じだろうか。「合力」という表現がいいですね。 普通ならカットされるような箇所まで文字起こしされていたり、一方で必要なのかわからない補足があったりするのがおもしろい。\nあかみ「（略）田島がすごいちゃんと（レコーダー）やってくれてる」\n田島「これ（音が）届くかわかんないんだよね、全域に」\n御手洗「ではちょっと声を張り気味で。そのまま続きを」\nとか。\n評論 # 御手洗靖大「和歌とはなにか」について言うには「古典には疎いので……」とお決まりの前置きをしなくてはならないのだけれど、論文調（レポート調？）の硬い文体や内容と、その一方で「心の叫び」という曖昧な定義や個人的な会話を根拠として提示にしているところにギャップを感じた。評論と銘打ってあるのだから別に学術論文の作法に則る必要はないのだろうけれど、でも変な気がするなあ。\n寄稿者数は決して多くないけれど、多様性のあるという印象を誌面から受けた。各人がばらばらの出自（インターネットだったり別の学生短歌会だったり国文学だったり俳句だったり）を持っていて、しかし互いに無関心というわけではないのだろうな、となんとなく感じられるところを好ましく思う。おもしろく読みました。\nブースではフリーペーパーとしてあかみ『ソルボンヌ通信番外編』はたえり『多分ごめんね』『森本直樹(森直樹)自選五十句＋α』の3枚も配布していた。 『ソルボンヌ通信番外編』は短歌のアンソロジーや入門書などを紹介するガイド。入門書として中川佐和子『30日のドリル式初心者に優しい短歌の練習帳』という本が紹介されているのがちょっと意外だった。未読ながらタイトルから想像するにハウツータイプの入門書だろうけれど、学生短歌の人はそういう本はあまり読まないと勝手に思っていたので。今野寿美『短歌のための文語文法入門』が面白そう。\n『多分ごめんね』はイラストがかわいい（連作の横にちっちゃく描いてあるほうが好き）。『森本直樹(森直樹)自選五十句＋α』はこれ自選が50句ないですよね？\nほしいものリストの一番上にあるパーティーグッズ　ずっとしんどい\n／はたえり『多分ごめんね』\n花は葉に乱丁のある同人誌／森本直樹\n","date":"2016年10月3日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2016/10/03/020256/","section":"ブログ","summary":"","title":"『同志社短歌』三号","type":"posts"},{"content":"随時更新。4月以前はあいまい。 特に好きだったものは☆、オールタイムベスト級は☆☆、イマイチだったものは▲。\n映画 # 2/12 クストリッツァ『アンダーグラウンド』再（YEBISU GARDEN CINEMA） 2/18 ソクーロフ『エルミタージュ幻想』（大学図書館） 3/20-21 エイゼンシュテイン『戦艦ポチョムキン』再（航空機内） 3/20-21 アレクセイ・ゲルマン『わが友イワン・ラプシン』再（同） 3/20-21 タルコフスキー『惑星ソラリス』再（同） 4/8? 岩井俊二『Love Letter』（早稲田松竹）☆ 4/8? 同『PiCNiC』（同）▲ 4/8? 同『四月物語』（同） 5/6? ベルトルッチ『暗殺の森』（早稲田松竹） 5/6? 同『ラストエンペラー』（同）☆ 5/12 松本貴子『氷の花火　山口小夜子』（早稲田松竹） 5/13 篠崎誠『SHARING』(テアトル新宿)☆ 5/21-22 タルコフスキー『ノスタルジア』再（新文芸坐／オールナイト） 5/21-22 同『ストーカー』（同）☆☆ 5/21-22 同『惑星ソラリス』再（同） 5/24 マヤ・デレン『午後の網目』（横浜美術館・コレクション展） 5/25 塚本晋也『野火』再（目黒シネマ） 5/25 市川崑『野火』（同）☆ 5/27 サーシャ・アンセルド『ブルー・アンブレラ』 （東京都現代美術館・ピクサ―展）☆ 5/27 エンリコ・カサロサ『月と少年』（同） 5/27 ジェームズ・フォード・マーフィ『南の島のラブソング』（同） 5/29 クストリッツァ『ライフ・イズ・ミラクル』（シネマ・ジャック＆ベティ） 6/13 ウォン・カーウァイ『恋する惑星』（早稲田松竹）☆ 6/13 同『天使の涙』（同） 6/13 同『恋する惑星』再（同） 6/13 同『恋する惑星』再（テレビ放送） 6/16 同『花様年華』（早稲田松竹） 6/16 同『ブエノスアイレス』（同）☆ 6/18 クストリッツァ『黒猫･白猫』（新文芸坐）☆☆ 6/28 森達也『FAKE』（ジャック＆ベティ）☆ 7/15 ハイロ・ブスタマンテ『火の山のマリア』（早稲田松竹） 7/15 ネメシュ・ラースロー『サウルの息子』（同）☆ 7/18 岩井俊二『リップヴァンウィンクルの花嫁』（横浜シネマリン） 7/20 クストリッツァ『ジプシーのとき』（キネカ大森） 7/20 同『アンダーグラウンド』再（同） 7/28 ファスビンダー『あやつり糸の世界』第一部・第二部（早稲田松竹）☆ 8/4　吉増剛造〈gozoCiné〉もろもろ（国立近代美術館） 8/5　ヴィスコンティ『ルートヴィヒ』（ジャック＆ベティ）☆ 8/5　マヤ・デレン『午後の網目』再（横浜美術館・コレクション展） 8/7　ジャック・リヴェット『修道女』（早稲田松竹）☆ 8/13 土屋豊『新しい神様』（VHS？） 8/14 ウォーレン・ベイティ『ブルワース』（DVD）☆ 9/1　ヴィスコンティ『山猫』（下高井戸シネマ）☆ 9/2　パラジャーノフ『ざくろの色』（アップリンク） 9/2　同『火の馬』（同） 9/3　新海誠『君の名は。』（新宿ピカデリー） 9/5　ゴダール『勝手にしやがれ』（横浜シネマリン） 9/5　同『気狂いピエロ』（同）☆ 9/22 トム・フーパー『リリーのすべて』（早稲田松竹） 9/22 パオロ・ソレンティーノ『グランドフィナーレ』（同）▲ 9/22 黒川幸則『VILLAGE ON THE VILLAGE』（ポレポレ東中野）☆☆ 9/24-25 トリュフォー『大人は判ってくれない』（新文芸坐／オールナイト） 9/24-25 同『アントワーヌとコレット／二十歳の恋』（同） 9/24-25 同『夜霧の恋人たち』（同）☆ 9/24-25 同『家庭』（同） 9/24-25 同『逃げ去る恋』（同） 9/28 ダーグル・カウリ『好きにならずにいられない』（ジャック＆ベティ） 10/10 パトリシオ・グスマン『チリの戦い』第1部ｰ第3部（横浜シネマリン） 10/11 パトリシオ・グスマン『光のノスタルジア』（横浜シネマリン）☆ 11/18 土方宏史『ヤクザと憲法』（横浜シネマリン）☆ 演劇など # 1/16 岡崎藝術座『イスラ！イスラ！イスラ！』（どらま館） 2/18 マームとジプシー『夜、さよなら』『夜が明けないまま、朝』『Ｋと真夜中のほとりで』（彩の国さいたま芸術劇場） 3/15 ゲルギエフ指揮／マリインスキー管弦楽団『ボリス・ゴドゥノフ』（マリインスキー劇場） 3/19 マリインスキー・バレエ『火の鳥』（マリインスキー劇場） 3/28 アムリタ『わたしたちの算数 あるいは 握手を待つカワウソ、とても遠い犬』（シアター・バビロンの流れのほとりにて）☆ 5/26 ロロ『あなたがいなかった頃の物語と、いなくなってからの物語』（東京芸術劇場）☆ 6/30 青年団リンクキュイ『不眠普及』（アトリエ春風舎） 7/16 sons wo『シティⅡ』（pool＠桜台）☆ 8/3 キューブ『ヒトラー、最後の20000年〜ほとんど、何もない〜』（本多劇場） 8/11 大川興業『自由自』（映像） 8/12 KOKAMI@network『僕たちの好きだった革命』（映像） 9/1 劇団どくんご『愛より速く』（井の頭公園）☆ 9/2 ヤリナゲ『翳りの森』（十色庵） 11/5 アムリタ『恋の死とその幽霊』（荻窪小劇場） ","date":"2016年1月1日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2016/01/01/000000/","section":"ブログ","summary":"","title":"2016映画鑑賞・観劇リスト","type":"posts"},{"content":"手を広げ人を迎えた思い出のグラドゥス・アド・パルナッスム博士\n／服部真里子『行け広野へと』（2014　本阿弥書店）\nグラドゥス・アド・パルナッスム博士ってどんなひとだろう。調べてみたけれどもそういう名前の人間がいたわけではなく、ピアノ曲のタイトルだそうだ（私も聞き覚えがある曲だった）。「退屈な練習に閉口する子供の心理を表現した曲」だというから、そのあたりが「思い出」とかかっているのかもしれない。\nけれども「博士」と言われたら、やっぱり博士のことを考えたくなる。どんなひとだろう。「思い出」「博士」と言われると、老人の気がしてくる。グラドゥスという響きは、なんだか男性名っぽい。おじいさんの博士の姿が浮かんでくる。服部さんと博士といえば、「少しずつ角度違えて立っている三博士もう春が来ている」（『行け広野へと』）もいい歌だ。こちらの歌の博士たちはみんなぴしっと立っていて、たぶん宗教画の中にいたり彫刻でいたりしてなんだか神聖な感じがする。\n掲出歌の博士はどうやら生身の人間らしい。手を広げるとひとは大きく見えるし、思い出の中だから輪郭がぼやけてより大きく見えている。思い出の中の子どものころの小さなわたしと、大きなおじいさん。わたしがうれしくて手を広げて博士を迎えたのか、博士が手を広げてわたしを迎えてくれたのか。いずれにせよ、きっとやさしい博士だ。\n","date":"2014年10月19日","externalUrl":null,"permalink":"/posts/2014/10/19/000000/","section":"ブログ","summary":"","title":"手を広げ人を迎えた思い出のグラドゥス・アド・パルナッスム博士（服部真里子）","type":"posts"},{"content":"","externalUrl":null,"permalink":"/authors/","section":"Authors","summary":"","title":"Authors","type":"authors"},{"content":"","externalUrl":null,"permalink":"/categories/","section":"Categories","summary":"","title":"Categories","type":"categories"},{"content":"","externalUrl":null,"permalink":"/series/","section":"Series","summary":"","title":"Series","type":"series"}]